第2回 処女降誕を巡って

教会は自由のオアシス No2 処女降誕を巡って

 

 <目次>

 

  1. 処女降誕をめぐる問題
  2. さてまとめます
  3. マリアをめぐるカトリックとプロテスタントの立場
  4. ではあなたはどうなの? 処女降誕を信じているのと問われれば。
  5. モーセの姉とイエス様の母が同じ名前なのは?
  6. 結論

 

このコラムの題について一言

 第一回の折に語るべきでしたが、このコラムの題「教会は自由のオアシス」というのは、筆者の考えた表現ではありません。ヘルムート・ゴルヴィッツアーというドイツの神学者の書物から借用しました。教会にまつわる様々なつまずきやら誤解やらを解きほぐすのに適切な表現だと思ったからです。そういう目的ですから、今は亡きゴルヴィッツアー先生もお許しくださる、と信じます。

 

1 処女降誕をめぐる問題

1.1 さて、「禁酒・禁煙」が、キリスト教信仰の倫理的・道徳的な規範とふるまいにおけるつまずきであるのに対して、処女降誕は、キリストが何を信じているのかという信仰の事柄(これを教理とか教義と言います。)における、多くの人のつまずきではないでしょうか?

 

1.2 なぜならわたしたち現代人は、生物学を中学・高校で学んできて、哺乳動物に単性生殖はあり得ないことを知っているからです。いうまでもなく、人類を含むヒト科も哺乳類の一種です。それなのに教会は、メシア=救い主であるキリスト・イエスが、「処女マリアより生まれ」、と西方教会(=カトリック教会とプロテスタント諸教会)は、「使徒信条」において告白し、宣教し続けてきました。(東方教会の「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」にも、「処女マリアより生まれ」という文言が入っています。)ここにアポリア(難問)があります。

 

1.3 しかし、処女降誕を告げる書物は、新約聖書の27の書物のうち、マタイ福音書とルカ福音書の2冊だけです。イエス様死後の初代教会で大きな役割を演じたパウロは、処女降誕について沈黙しています。つまり彼の宣教内容には、処女降誕は含まれていません。マルコ福音書は、イエス様が、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面から描き始めます。ヨハネ福音書も1章のロゴス(=言葉・論理)賛歌において、「ロゴスは、肉となって人々の間に宿られた」(ヨハネ福音書1章14節))と記して、ロゴスによるメシア(救い主イエスキリスト)の誕生を告知しますが、処女降誕には言及しません。他の書物は、イエス様の生涯を語っているわけではないので、降誕にも触れず、まして処女降誕に言及しません。

 

1.4 福音書記者ルカは、新約聖書の著者たちの中で唯一異邦人キリスト者と思われます。彼は、ヘレニズム世界の、特にギリシャの処女崇拝を知っていたに違いありません。というのも、ギリシャ神話には、二人の処女神が登場するからです。一人はアテーナイの守護神にして学問と戦争の女神パラスアテナです。ちなみに、アテーナイのアクロポリスの丘に今も建っている「パルテノン神殿」は、パラスアテナを祀っているので、パルテノス(処女)に由来する名前です。もう一人は若い太陽神にして占いと予知の神アポローンの妹、月と狩の女神アルテミスです。この二人の処女神がオリンポス12神の中にいるということは、ギリシャ人たちの処女神崇拝を物語っています。そして英雄は、異常出生によって生まれてくる、というのが英雄伝説の通り相場です。この2つが合体すると、処女降誕伝説の成立へとつながります。

 

1.5 しかしこれは、ギリシャ・ヘレニズム世界の話です。イスラエルには、処女を特別視する、というジェンダー的偏見はなかったと思われます。その意味で、預言者イザヤのメシア預言(イザヤ書7章14節b)は、メシアの異常出生譚ではありません。なぜか? 「見よ、アルマー(=ヘブライ語で若い女性)が身ごもって男の子を産み、インマヌエルと呼ぶ。」預言者イザヤは、処女ではなく、単に若い女性としています。つまり、処女降誕の典拠ではないのです。イザヤは、単に若い女性が、(結婚して)子供を産む、その子がメシア(救い主イエスキリスト)であり、インマヌエル(=「神は我らと共に」の意味)と名付けられる、と予言しているのです。結婚すれば若い女性に子供が与えられるのは、当然のことです。何の不思議もありません。ただイザヤの預言するこのアルマー(=若い女性)が、メシアの母となる、というところが通常の男の子の誕生とは違います。

 

1.6 聖書の神様は、一義的には「イスラエルの神」様です。このイスラエルの神さまが、同時に「諸民族世界」の神様でもあるのは、言うまでもありません。なぜなら聖書において神様は、唯一であり、かつ創造者です。全ての物は神様の被造物であり、全ての人間も当然神様の創造のみ手の内にあります。この神様が、ヘブライ人たちが、エジプトを脱出してシナイ半島をさまよったとき、「昼は雲の柱、夜は火の柱をもって」(出エジプト記13章17-22節)民に伴い、ご自身の臨在を示されました。この臨在をヘブライ語でシェヒナーと言います。預言者イザヤは、この神様のシェヒナー(臨在)を、インマヌエルと言い換えたのです。つまり、終末に到来するメシアは、神様のシェヒナー(臨在)を、私たちに示すのです。

 

1.7 ところが、福音書記者マタイは、ユダヤ人キリスト者の教会の指導者だったわけですから、ヘブライ語を理解できたはずです。ちなみに、こういうユダヤ人キリスト者を、「ヘブライスト」と呼びます。逆にギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者は、「ヘレニスト」と呼ばれています。(使徒言行録6章1-7節)このマタイは、イザヤのメシア予言を、ギリシャ語訳聖書(これを70人訳=セプチャギンタと言います)から引用しました。なぜ自分でヘブライ語聖書から訳さなかったのでしょう? 私には疑問です。このギリシャ語訳聖書は、共通紀元前3世紀ごろにエジプトのアレクサンドリアでデアスポラ(ユダヤ本国ではなく、海外寄留の意味)のユダヤ人ラビたちによって始められました。そのイザヤ書7章の当該箇所は、次のように訳されました。「見よ、処女(パルティノス)が身籠って男の子(ヒュイオス)を産む。その名は、お前は彼の名をインマーヌエールと呼ぶ。」(マタイ福音書1章23節参照=秦剛平訳『70人訳ギリシャ語聖書 イザヤ書』 なお、当該箇所の訳注には私は異論がありますがここでは割愛します。)

 

1.8 アレクサンドリアのユダヤ人たちが、なぜ若い女性の意味のアルマーを,処女の意味のパルテノスに置き換えたのか、ちょっと謎です。誤訳と言ってもいいほどの訳です。この翻訳からの引用を根拠に、処女降誕を福音書記者マタイは主張するわけです。しかもインマヌエルというヘブライ語の単語のわからない読者のために「この名は、『神は私たちと共におられる』という意味である」、と訳を添えています。

 

1.9 このギリシャ語訳イザヤ書のメシア予言を根拠に、マタイは、この引用の前に、二度処女降誕を記します。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(1章18節)ついで夢の中でのヨセフへの天使の告知です。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は、聖霊によって宿ったのである。」(1章20節b)ちなみに、ヨセフと言えばエジプトでファラオ(皇帝)の夢を解いて、エジプトを飢饉・飢餓から救い、奴隷から現代日本でいえば総理大臣にまで出世した、ヤコブの11番目の息子のことが、思い浮かびます。(創世記37章以下。特に40-41章)イエス様の父がこのヨセフと同じ名前なのには訳があります。二人共に夢を解く能力を持っていたからです。主人とファラオの夢を解くヨセフ、天使の夢の中のお告げを理解するヨセフ。メシアは、イスラエルの歴史の体験を反復します。でもメシアだけではなく、彼の周りにいる人々も、イスラエルの歴史体験を反復します。

 

1.10 さて、どうしてマタイのユダヤ人キリスト教会は、処女降誕の使信を必要としたのでしょうか? あるいは別に問えば、なぜヘブライ語原典のアルマーでは満足できなかったのでしょうか? なんだかヘブライストのマタイが、ギリシャ的ヘレニズム的な処女(神)崇拝に毒されているような感じすらします。

 

1.11 ルカ福音書の降誕物語で処女降誕に触れているのは、1章27節と34節です。27節には、天使ガブリエルは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなづけである処女のところへ遣わされたのである。その処女の名はマリアといった」とあり、34節に「マリアは天使に言った。どうしてそんなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」とマリアの返答を記しています。福音書記者ルカは、異邦人キリスト者として当然のように「処女」という言葉を使い、「男を知らない」とマリアに言わせています。だから、処女降誕を信じるのも当然だ、と言わんばかりです。

 

2 さてまとめます

2.1 「しかし、処女降誕を告げる書物は、新約聖書の27の書物のうち、マタイ福音書とルカ福音書の2冊だけです」、とすでに書きました。マルコもヨハネもパウロも、その他の記者たちも処女降誕については語りません、触れません、沈黙しています。27の新約聖書の書物を17人の著者が書いていますが、処女降誕を記している著者は、書物の数で言えば17分の2の確率です。

 

2.2 マタイのメシア予言の引用をイザヤ書に戻せば、ヘブライ語原文はアルマー、若い女性のことであり、パルテノス、処女は、ギリシャ語の翻訳であること。ならば翻訳ではなく原文が尊重されるべきです。

 

2.3  処女崇拝は、ギリシャ・ヘレニズムの所産であって、ユダヤ教からは出てきません。イエス様の弟子たちはもちろん、ルカを除けばすべての新約聖書の記者たちは、ユダヤ人です。

 

3 マリアをめぐるカトリックとプロテスタントの立場

 ですから、処女降誕につまずく人は、イザヤの預言に戻ってメシアとしてのキリストの到来を信じることが可能です。処女降誕は、プロテスタント的にはキリスト教信仰における「必要絶対条件」ではないからです。処女降誕を「必要絶対条件」とするのは、東方教会、とりわけカトリック教会のマリア理解です。マリアを「神の母」とし、「マリアの被昇天」(マリアが死後に天使たちによって神のみ元へ引き上げられたとする説)や「マリアの無原罪受胎」(マリアは、普通の人間とは異なり原罪なしでメシアを受胎したとする説)を信じるには、その前提として処女降誕が必要となるからです。でもいずれも新約聖書には記されていません。聖書に記述されていないことを信仰箇条=教理とするのは、「聖書と使徒伝承」(聖書にはないが、伝統的に教会で信じられてきた伝承。それが公会議で決定されると教理となる。)を認めるカトリック教会では成り立ちます。しかし、「聖書のみ」を旨とするプロテスタント教会では、聖書に書いていないことを信仰箇条とするのは、その立場に反します。

 

4 ではあなたはどうなの? 処女降誕を信じているのと問われれば。

  最後に自分のことを言わないとフェアーじゃないので、ずっと昔17歳で洗礼を受けた頃、私は処女降誕をどう受け取っていたのだろうか? と思い出してみました。私はあまり引っかからなかったようです。全能の神様がなさることなら、処女降誕もあり得る、と当時は理解していたようです。でも私にとっては、バプテスマのヨハネから洗礼を受けてからのイエス様の生き様と十字架の死と復活が、重大な関心事でした。それに私はプロテスタント教会で洗礼を受けたので、マリアについて教わった記憶がないのです。処女降誕を信じたから、私は神様を信じ、キリストを救い主として受け入れた、ということではなかった、と振り返って思います。「あまり引っかからなかった」と書きましたが、私の最初の信仰の動機に処女降誕は関与していないようなのです。否定もしなかったし、今も否定はしません。しかし、生物学的にありえない、とつまずく人の気持も分かります。現代人なら引っかかって当然だ、とも思います。でもだからキリスト教は、私には縁がない、と斬って捨てるにはあまりにも惜しいものが、キリスト教信仰とこの信仰が生み出し形成してきた文化にはある、と私は思っています。まあ、他者から見れば、我田引水の物言いですが。

 

5 モーセの姉とイエス様の母が同じ名前なのは?

 ところで、モーセのお姉さんもイエス様の母も名前は同じマリアです。ヘブライ語でミリアムと言い、ギリシャ語発音でマリアです。同じ名前なのも理由があります。両者ともに解放の歌を歌っているからです。(出エジプト記15章20-21節。1-18節の「海の歌」参照。(「海の歌」も元はミリアムの歌か、彼女とモーセの合作だったとする解釈者は、少なくありません。)ルカ福音書1章46-56節「マリアの讃歌」)私からすると、処女降誕よりもこっちの「解放の使信」の方が、もっと大切です。

 

6 結論

 処女降誕が、キリスト教信仰にとって「必要絶対条件」でないなら、処女降誕を信じないキリスト者がいてもおかしくありません。大切なことは、処女からであろうとなかろうと、神様が遣わされたメシアが、ユダヤ人の肉体をとってナザレのイエスとしてユダヤ人の女性マリア(ヘブル語読みでミリアム)からお生れになったことを受け入れることです。何故ならば、「救いはユダヤ人からくる」(ヨハネ福音書4章22節b)からです。そして救いをメシアがもたらす限りにおいて、「メシアはユダヤ人からくる」のです。ですから、ユダヤ人でもないのにメシアを勝手に名乗る人は、それだけでペテン師・詐欺師、ということになります。そしてこのメシアであるキリスト・イエスを受け入れ、信じ、彼の御足の後に従ってこの世の人生を歩むか否か、彼が実践し成就した愛と正義、平和と公平、和解の道を歩むかどうか、そこに比重はかかっていると思います。

 

畠山 保男

 

HOMEへ