第7回 復活No3 パウロの復活理解と結論

 第7回 復活3 パウロの復活理解と結論

 

<目次>

1. キリストの復活(コリントの信徒への手紙一15章1−11節)

2. パウロの二元論的・二項対立的な思惟の方法への疑問

3. 復活は終末時の命の新たな創造

 

 これまでは福音書の復活物語を対象として復活の理解を追求してきました。今回はパウロの復活理解です。キリストの復活について、そして終末の日の最後の審判の時の「死人の復活」について、パウロは述べています。最後に復活ということでパウロが何をどう理解したのか、検証します。そのあと結論です。

 

1. キリストの復活(コリントの信徒への手紙一15章1−11節)

キリストの復活についてパウロは、彼が受け取った伝承を紹介しています。

1.1 弟子たちへの復活のキリストの顕現伝承(15章3b—8節)

 すなわちキリストは、書物に従って、我らの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、書物に従って3日目に甦らされたこと、そしてケパに現れ、ついで十二人に現れたことを。それから5百人以上の兄弟に同時に現れた。その中の多くの者は今日も生きている。何人か亡くなった人もいるけれども。それからヤコブに現れ、ついで全ての使徒たちに現れた。全ての最後に、生まれそこないのような私に対しても現れた。(3b−8節 田川建三訳)

 

 5百人以上の弟子に同時に復活のキリストが現れた、という伝承をパウロはどこから受け取ったのでしょうか? 福音書にはそんな記述はありませんでした。 一人か二人、三人、多くて十二人ほどの弟子に現れた復活顕現の物語が、一挙に5百人に膨れ上がると、さてこれをどう理解すべきか、正直戸惑います。そしてパウロが、自分にも復活のキリストが現れた、と証言するとき、これも何を言っているのか、戸惑います。というのも、パウロが改宗してキリスト者になるのは、キリストの昇天の後、聖霊降臨の後だからです。(使徒言行録9章1−9節参照)ダマスコ門外で出会った復活のキリスト体験を、パウロはキリストの復活顕現として理解しています。でもこれは他の弟子たちと同じキリストの復活顕現なのでしょうか? 

 それともステパノの殺害に関与したパウロの強烈な罪責意識による彼の幻だったのでしょうか?(使徒言行録8章1節参照)

 

 この強烈な罪責意識が反転して改宗するというのは、心理学的にはありうることです。そもそもなぜパウロがダマスコ途上にいたのかと言えば、さらにキリスト者を迫害し、逮捕するためだったのです。こんな罪作りなことをしている自分に嫌気がさしたとも言えます。あるいは、サドカイ派によって利用されている自分に気づいたのでしょうか?(使徒言行録9章1−2節参照。最もここでは、パウロ自身が積極的に大祭司に働きかけているわけですが。)ヒレルの孫ガマリエルのもとに留学して律法を学んでいたパウロが、なんでステパノ殺害というキリスト教に対する熱心党的な対応に与することになったんでしょう? そのことについては、パウロは黙して語りません。

 

1.2 死者の復活とキリストの復活をめぐる論争(15章12−19節)

 「キリストは死人のなから甦らされたと宣べ伝えられているのに、あなた方のうちに、死人の復活などない、と言う人がいるのはどういうことか。死人からの復活がないとすれば、キリストも蘇らなかったことになる。」(12-13節 田川訳)

 ここでパウロは、コリントの教会の中で死者の復活はありえない、と否定する人々を批判しています。この人々は、どこから死者の復活を否定する考えを得たのでしょうか? 当時ユダヤ教内ではサドカイ派の人々が、死者の復活を否定していました。(マルコ福音書12章18節参照)「復活2」で述べたように、グノーシス主義者たちも、別な理由から体の蘇りを否定していました。コリントの教会員で死者の復活を否定する人々は、このグノーシス主義の影響を受けていたようです。

  パウロは、キリストの復活を、死者の復活と結びつけます。つまり、死者の復活があるから、キリストの復活があり得たのだ、というのです。

 

 「そしてキリストが甦らされなかったのならば、我々の宣教も無駄であり、あなた方の信仰も無駄である。それならまた我々は神の偽証者ということになろう。なぜなら、死人が甦らされないというのに、神が甦らされなかったキリストを神が甦らされたのだと、神に反して証言したことになるからである。死人が甦らされないとすれば、キリストもまた甦らされなかったのである。キリストが甦らされなかったのであれば、あなた方の信仰は虚しく、あなた方はまだ自分の罪の中にとどまっていることになる。とすると、キリストにあってなくなったものもまた滅んだことになる。」(14−18節 田川訳)

 

 神に反して証を立てるなんぞということがありえようか! あなたたちは、私のキリストの死者の中からの復活の宣教を信じないのか、私は無益に宣教しているのではない、とパウロは逆に復活を否定する人たちを攻めます。「キリストがよみがえらされなかったなら」、「我々の宣教は無駄」、「あなた方の信仰も無駄」、「私たちは、神の偽証人」とみなされる、とパウロは畳み掛けます。でもこの論理では、死者の復活自体を納得させることはできません。「この私が神の偽証人であるはずがない。そこを信じろ」と言われても、事柄はパウロの誠実さではなく、死者の復活の有無です。なんだかパウロさん、上から目線なのですよね、ここは。いや、ここだけじゃないでしょ、というツッコミが入りそうですが。

 

1.3 死者の蘇りと初穂としてのキリストの蘇り

 「死者がよみがえらされなかったら、キリストもよみがえらなかったはずである。」ここで問われるのは、死者の蘇り=復活という使信(メッセージ)のどこにパウロの敵対者たちはつまずき、何を否定したのか、ということです。それは、パウロの次の言葉に表現されています。

 「だが、キリストは亡くなった者の初穂として死人の中から甦らされたのである。」(15.20 田川建三訳)

 ここで、キリストが神によって甦らされたのは、「亡くなった者の初穂」としてであって、いわば終末時の神様による死者たちの蘇りの先取り、先駆なのだ、とパウロは主張します。

 

 ところがグノーシス主義者たちは、この人間の死をそもそも受け入れません。なぜなら人間の魂(プネウマ)は不死であり、永遠不滅であり、死ぬことはありえないからです。彼らの理解によれば、死とともにやがて雲散霧消するのは肉体です。それ自体の故郷へ戻った霊魂は、折を見てまた適切な肉体を探し、地上へ回帰して人間として過ごします。霊魂の輪廻転成ですね。(この部分、この「コラム5 復活1」のプラトンのプネウマ(霊魂論)のところを再読してください。)

 

1.4 ソクラテスが従容として死に赴いた理由

 「人間は一度徹底的に死ぬ」、という認識が、古代のギリシャ哲学者たち、そしてグノーシス主義者たちにはありません。プネウマ(霊魂)が永遠不滅であるならば、結局人間にとって本質的な部分であるプネウマは、人間が死ねば、肉体の牢獄の戸が開かれ、それ自身の故郷に帰還して、永遠に生き続けるわけです。ですから「死は、人間の友」として、歓迎すべきものとして捉えられたのです。ソクラテスが、青年たちを扇動した咎で不当な死刑判決を受けても、弟子たちが提案した他のポリス(都市国家)への亡命を拒んで、毒ニンジンを飲んで従容として死んでいった理由は、このプネウマの永遠性にあります。だから彼は、落ち着き払って弟子たちにプネウマの永遠性について語り、(いわば講義し)死に赴くわけです。直前に語ったように、死の瞬間に自分のプネウマが故郷へ帰還するのを確信しながら。(プラトン『ソクラテスの弁明』『パイドン』 いずれも岩波文庫参照)

 

 このソクラテスの死に様と対照的なのが、死を目前にしたイエス様の激しく動揺したあり方です。(これについては、「イエス様の受難」について考察するときに、記します。)

 

1.5 アダム=vsキリスト=生

 逆にパウロは、さすがにユダヤ人だけあって、この人間の死を受け入れ、そこから出発します。そこでパウロは、アダムとキリストを対比します。

 「一人の人間によって死が生じたように、一人の人間によって死人たちの復活が生じた。つまりアダムにおいて全ての人が死ぬのと同様に、キリストにおいてまた全ての人が生かされるであろう。」(15.21-22 田川訳)

 

 ここでパウロは、彼にとってお手のものの対比配列法を用いて、一人の人間アダムにおいて死が生じ、全ての人が死ぬのに対して、一人の人間キリストによって復活が生じ、全ての人が生かされる、と論証しています。この理解は、タナハ(旧約聖書)的・イスラエル的な理解を継承しています。アダムにおける死すべての者の死vsキリストの復活全ての者の生命。こうしてパウロにおいて、アダムにおいて死が象徴され、キリストはその復活において命を象徴します。

 

1.6 復活する順序(15.23-24a

 ついでパウロは、復活する順序について語ります。

 「それぞれが自分の順に応じて。初穂がキリスト。ついでキリストの者たちがキリストの来臨の時に。ついで終末。その時キリストは、あらゆる支配、あらゆる権力と力を無効にして、支配権を父なる神に引き渡す。すべての敵を彼の足元に置くまでは、キリストが支配せねばならないのである。最後の敵として死が無効にされる。すなわち「一切を彼の足元に服せしめた」のである。一切が服せしめられたという時、一切を彼に服せしめた方(=神)がその中に入らないのは明瞭である。一切を彼に服せしめた時、御子自身もまた一切を御子に服せしめた方に服するであろう。神が一切において一切になるためである。」(15.23-28 田川訳)

 

 ここでパウロは、3点にわたり重要なことを述べています。一つは復活の順序についてです。復活の初穂つまり最初に復活した方がキリスト。キリストが来臨=再臨するときにキリスト者たちが復活。そして終末が到来。すべての死者が復活。 終末の時に生きている者も「朽ちぬ体」に変えられる、というのです。(15.52参照=後述)この人たちは、死んでいないのですから、復活ではではありません。しかし死者と同様「朽ちない体」を与えられます。

 

1.7 キリストの支配と神様への支配権の譲渡

 二つ目に、「キリストは、その時あらゆる支配と権力と力を無効にして、その支配権を父なる神に引き渡す」、と彼は予言しています。その時までキリストは、千年の間支配する(ヨハネの黙示録20章6節参照)、ともヨハネ黙示録では予言されます。これがキリストの「千年王国」説の根拠ですね。

 

1.8 父なる神へのキリストの服従

 第三にキリストは支配権を父なる神に引き渡したあと自らも彼に服従する、とパウロが予言していることです。「神が一切において一切になるため」だ、と言うのです。ここに神様の主権があります。キリストはメシアとして父なる神に服従し、従属するのです。ここでパウロは、(父なる)神のみが神である、と宣言しています。キリストが神だなんぞとは、一言も述べていません。後代の三位一体論における「父と子の同一本質」なんぞという、アタナシオスの主張とは、何の関係もありません。

 この後29節から41節までパウロは死者のために洗礼を受けた者について言及し、またどのようにして死者が蘇り、どんな体に蘇るのかという問いに答えようとしています。種まきを想像して、様々な種がある、と述べている。その後死者たちの復活もそうだ、と弁証します。

 

1.9 パウロの対比配列法により肯定されるものと否定されるもの(15.42-50

 「死人たちの復活もまた同様である。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないもので甦らされる。尊厳のないもので蒔かれ、輝きにおいて甦らされる。弱さにおいて蒔かれ、力において甦らされる。〈自然的〉生命の体があるのであれば、霊的体もあるものだ。また最初の人アダムは生きる〈自然的〉生命となった、と書かれてある。最後のアダムは生かす命となったのだ。しかしまず霊的なものというのではなく、〈自然的〉生命のものがあって、それから霊的なものがあるのである。最初の人は大地から出てきたものであって、土的である。第二の人は天からである。土的なもの(=アダム)と同様土的なものたちもそうなのである。そして、我々は土的な者の似姿を持っていたのと同様に、天上の者の似姿をも持つようになる。兄弟たちよ、このことを申し上げるのは、肉と血は神の国を受け継ぐことができないからである。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはないのだ。」(15.42-50

 

 ここでもまたパウロは、お得意の対比配列法を用いて、事柄を対比的に鮮明にしようとしています。その対比とは、以下のことです。

 1.朽ちるものvs朽ちないもの 2. 尊厳のないものvs輝き 3. 弱さvs

4. 自然的生命の体vs霊的体 5. 最初の人アダム=生きる自然的生命v最後のアダム(すなわちキリスト 注)=生かす命 6. 最初の人=大地から出てきた者=土的=我々。第二の人=天から(到来) 7. 我々=土的なものの似姿天上のものの似姿。

 

 パウロはまた「肉と血は神の国を受け継ぐことができない」と述べます。そうすると、「霊の体」=「朽ちない体」には、肉も血もないことになります。骨がここでは言及されていませんが、そういったものは見えるもの、可視的なものですから、見えない霊的な存在ではないですね。確かに。パウロは、「霊の体」を一体どのように想像していたのでしょうか? これらの物質的なものが神の国を受け継げない理由は、肉は朽ちる者だからだ、と言うのです。でもこれだと、プラトン的なサルクス(肉体)理解とどこが違うのでしょうか?

 

1.10 朽ちるものが朽ちないものを着る-終末の希望(15.50-53

 みよ、秘儀をあなたがたに申し上げよう。我々みんなが死ぬわけではない。しかしみんなが変えられるであろう。瞬時に、またたく間に、最後のラッパが鳴るときに。すなわちラッパが響くと、死者たちが朽ちぬ者として甦らされ、我々の方は、朽ちぬ者に変えられる。というのは、この朽ちるものが朽ちぬものを着ることになるからである。この死すべきものが不死を着るのである。(田川訳)

 

 「我々みんなが死ぬわけではない」というパウロの主張には、このコリント一15章を書いている時点で彼は、キリストの再臨が彼の生存中に到来する、という希望と信仰を持っていた、という事情があります。でも待てど暮らせど再臨のメシア=キリストは到来しなかったのですね、彼の生前には。いや、彼の生前どころか、その後の共通紀元1世紀・2世紀の時代にも、そして2千年経った今も、キリストは到来していないわけです。これを称して「再臨の遅延」・「終末の遅延」と言います。ですから1世紀末に書かれたペトロの手紙二の著者は、次のように警告します。「このことだけはあなた方は忘れてはならない。主の元にあっては、1日は千年の如く、千年は1日の如し、という。」(3章8節)(田川訳)「再臨の遅延」・「終末の遅延」をこのように理解することで、初めてキリスト者たちは、人間の時間と神の時間の違いを理解し、挫折せずに済んだのです。

 

 ですからパウロが語ったことはずっと引き延ばされているわけです。最後の日が到来した時に生きている者に、パウロの予言は妥当します。つまり、「我々の方は、朽ちぬ者に変えられる」、という予言が。その日には、死者=死すべき者不死、朽ちるもの朽ちぬものという変化における対比関係を、パウロは語ります。

 

1.11 復活は死に対する勝利(15.54-58

 最後にパウロは、「復活は死に対する勝利」である、と高らかに宣言します。

 「この朽ちるべきものが朽ちぬものを着、この死すべきものが不死を着るとき、書かれてあることが実現する。「死は勝利へと呑み込まれた。(イザヤ25.8とやや似ている)死よ、汝の勝利はどこにあるか。死よ、汝の棘はどこにあるか。(ほぼ70人訳ホセア書3.14)」死の棘は罪である。そして罪の力は律法である。我らの主イエス・キリストによって我らに勝利を与えてくださる神に感謝。だから、わが愛する兄弟たちよ、しっかりしなさい。動かされてはならない。あなた方の労苦は主にあって虚しいものではないと知って、常に主の業に増進するがよい。」

 

 こうしてパウロは、イザヤとホセアの予言を引きながら、それを復活と結びつけ、死にたいする復活による勝利を宣言するのです。だからパウロは、キリストによって、すなわちキリストを復活させられた神によって、「我らに勝利を与えてくださる神に感謝」します。ここでもキリストと神は明瞭に区別されています。復活の主役は、メシア=キリストではなく、命の創造者なる神様です!メシアは。命の創造者ではありません。それは、ひとえに唯一の創造者なる(父なる)神様の業です。

 

2. パウロの二元論的・二項対立的な思惟の方法への疑問

2.1 パウロの対比配列法による否定的なものと肯定されるもの

 以下にこれまで取り出したパウロの対比配列法による二つの項目を、改めて取り出してみます。

1.アダム対キリストもしくは死vs生 

2. アダムにおける死すべての者の

vsキリストの復活全ての者の生命。

. 復活の初穂つまり最初に復活した方がキリストキリストが来臨=再臨するときにキリスト者たちが復活。終末が到来=すべての死者が復活。終末の時に生きている者も「朽ちぬ体」に変えられる。

4. キリストは、その時あらゆる支配と権力と力を無効にするその支配権を父なる神に引き渡す。

5. さらなる対比。5.1. 朽ちるものvs朽ちないもの5.2. 尊厳のないものvs輝き 5.. 弱さvs5.4. 自然的生命の体vs霊的体 5.5. 最初の人アダム=生きる自然的生命vs最後のアダム(すなわちキリスト 注)=生かす命 5.. 最初の人=大地から出てきた者=土的=我々vs第二の人=天から(到来) 5.. 我々=土的なものの似姿天上のものの似姿。

6. 死vs復活=死に対する復活(朽ちない命)の勝利

 

2.2 パウロの二元論的・二項対立的思惟のあり方にご注意を

 以上の対比によって、現在の私たちの命の状況と復活後の命の状況が明確になることは確かです。他方で、この対比は、ギリシャ的・プラトン的な霊肉二元論のパウロ的な表現ではないか、という疑問をこのコラムニストは持たざるを得ません。そもそも神様がアダムを創造された時の二番目の創造物語の描写は、次のように語られます。

 

 「アドーナイ・エローヒーム(=主なる神)は、アダーマー(土の塵)でアダム(人)を形作り、それにネフェシュ(生命の息)を吹きかけられた。するとアダム(人)は生きるものになった。」(創世記2章7節=畠山保男訳)

 

 ここでは、原材料としての土の塵で形を作り、それに神様がご自身の「生命の息」(ネフェシュ)をアダムの鼻に吹きかけられて、人(アダム)は初めて生きるものになった、とあります。つまり例えれば、花の種を土に植え、それに水をかけた時、その水は土の中に染み込み、もはや水として見ることはできません。渾然一体となっているからです。そうだとすると、パウロの対比配列法を用いて、アダーマー(土の塵)vsネフェシュ(生命の息)という二元論的・二項対立的な関係として表現できません。もちろんアダーマー(土の塵)をサルクス(肉体)と訳し、ネフェシュ(命の息)をプネウマ(霊魂)とギリシャ的に訳すこともできません。アダーマー(土の塵)が土であり、否定的なものであるならば、ネフェシュ(命の息)も否定的なものになってしまいます、聖書的・ヘブライ的な理解からは。パウロの対比配列法では、こういう統一的・一体的な人間理解が覆い隠されてしまいます。

 

 パウロが用いている対比配列法は、聖書の事柄にとって万能であるどころか、事柄の全体性・一体性を見失わせる結果にもなります。私たちはこのことに心して、聖書を理解すべきです。パウロは、ヒレルの孫ガマリエルの弟子だったようですが、このコリントの信徒への手紙一15章の論理を読むと、他方で彼は、いかに深く当時のヘレニズムの教養と論理を身につけていたかがわかります。それが彼の対比配列法という表現の方法に如実に表れています。

 

. 復活は終末時の命の新たな創造

 結論です。まとめます。

3.1 復活は、霊魂不滅ではない。(「復活1」参照)

3.1.1 決定的な死

 人間は、そしてすべての生命は、一度決定的に死にます。ですから、死んだら直ちに神の国・天国へ帰還する、という理解は、非聖書的です。全くの誤解です。それは、プラトンのプネウマ(霊魂)論の焼き直しです。まして義人だけではなく、どんな悪人も死ねばすぐ神の国・天国へ昇天する、という理解は、二重に間違っています。

 

 一つは、プラトンでさえ、あまりにも肉体と深く交わってしまったがゆえに、人間が死んでもすぐにそれ自身の故郷へ戻れず、地上を彷徨う霊魂もある、と主張しています。つまりプラトン的に言っても、霊魂は純粋でなければならないのです。善悪の彼岸(ニーチェ)というわけにはいきません。

 

 二つ目に、何をやっても死後にすぐに神の国・天国へ行けるなら、最後の審判に何の意味があるんでしょうか? 最後の審判を棚上げしています。そして神様の義が無視されてしまいます。何をやっても許されると主張するなら、それはカルトです! というのもカルトとは、「倫理なき宗教」のことだからです。いや、宗教という言葉をカルトに用いるのもおこがましいですね。カルトとは、「倫理なき、良心なき集団」です! 特に6百万人のユダヤ人の虐殺の最高責任者アドルフ・ヒットラーも今や神の国・天国にいる、と言うに至っては、プラトン的な霊魂の純粋性さえも抜け落ちています。ただ自動的に「すべての人は死後すぐに天国へ行けまっせ」、と根拠もなしに、無責任に主張しているに過ぎません。(この点については、「救済について」の項でさらに詳しく取り扱います。)キリスト教が非倫理的・無道徳的になってどうする?

 

 このキリスト教の救済としての「死者の復活」と「霊魂不滅説」の混同・誤解は、オスカー・クルマン教授が『霊魂の不滅か死者の復活か』という小著を出版した時の、多くの読者の拒否反応にすでに現れています。(O. クルマン同著 2017年 日本キリスト教団出版局 序 参照。

 

ちなみに初版から50年以上経って再版される書物って、やはり現代の古典と言うべきですね。そういう著書を書きたいものです! 個人的なことですが、私は、バーゼルの中世以来の神学寮Theolpgisches Almuneum(神学の友人たち)に住んでいた頃、二度ほど彼が訪ねてきたときにお会いしたことがあります。かつては、クルマン教授自身がそこの寮長・舎監でした、バーゼル大学神学部の教授職と兼任で。)

 ただクルマン教授は、「死者の復活」と「霊魂不滅説」を峻別しながら、パウロの対比配列法については、なんら問題視していません。そこを問題として意識すべきだったのではないか、と私は思います。

 

3.1.2 死者は、タナハ(旧約聖書)では、シェオール(死者の国・陰府)に行って眠っていることになります。(民数記16.33、ヨブ記17.13,詩編16.10,イザヤ書28.15,エゼキエル31.16)しかし他方で、シェオールでは神様との交わりが絶たれると理解され、恐れられました。(詩篇6.6,イザヤ書5.14

 

3.1.3 新約聖書ルカ福音書のラザロと金持ちの譬(ルカ16.25-26)では、ハデース(ギリシャ語。シエオール=陰府)は、生前隣人としてのラザロを愛さず、顧みず、栄耀栄華を独り占めして味わった金持ちが、苦しむ場とされています。他方で、義人が復活の時まで留まる場所(=アブラハムのそばにいるラザロ)とも考えられているように見えます(アブラハムのいる場所が、天国とか神の国とは書いてありません)。記してはないけれど、一つの理解の可能性は、アブラハムは義人として葬られた後、神の国へ呼び出され、ラザロもアブラハムの元へ呼び出された、というものです。

 

3.2 復活は、蘇生ではない

 皆さんは、ホラー映画でジメジメした墓の中でゾンビが横たわっている場面を見たことがあるでしょう。そこへ一滴の水滴が彼の顔にかかり、彼は目覚めて、むっくりと起き上がります。こんなイメージで復活を考えたら、それは全くの間違いです。ゾンビは死んでいなかったんですね。ですから勝手に自分で目覚めて、自分で起き上がるわけです。それは、息を吹き返したことではあっても、復活ではありません。

 

 ナザレのイエスは、偽りの、見せかけの死を死んで見せたのではありません。実際になんとも言えない叫びを残して死んだのです。(マルコ15.37、マタイ並行句27.50 ルカになると、イエス様は従容として死におも向かれたように描き直されます。その際イエス様の叫びの場面は、消去されます。「そしてイエスは大きな声をあげて言った。父よ、汝の御手に我が身を委ねます。こう言って、息が絶えた。(ルカ23.46 田川訳)」ルカは、『ソクラテスの弁明』や『パイドン』を読んだことがあるのでしょうか? なんかソクラテスの死の場面に近づけようとしているように、私には見えます。

 

3.3 復活は、創造者なる神様の主権を表す

 キリストは、自分で蘇ったのではありません。神様の命の力により、甦らされたのです。だからキリストの復活を表現するときは、いつも受動態なのです。

 

 「一切を彼(=神)に服せしめた時、御子自身もまた一切を御子に服せしめた方に服するであろう。神が一切において一切になるためである」(コリント一15.28)、とパウロは主張していました。そして、神様に服従し、栄光を神様に帰するメシアについて、はっきり述べています。神様が最後に「一切において一切になる」(別訳「全てにおいて全てになる」)ためです。パウロの主張に優先順位がある、というべきです。

 

3.4 死と復活は連続していない。断絶がある。

 イエス様は、一度決定的に死なれたのです。ということは、神様が創造の時に同時に創造され、すべての生きとし生けるもの者に与えられた「命の法則」もまた、イエス様の死とともにその働きを終えたわけです。この「命の法則」は、すべての生き物に同一という意味ではなく、各々相違するでしょうけど、与えられています。イエス様の死からキリストの復活までには、断絶があり、だから2日ほどの時間の経過があります。

 

 死とキリストの復活が連続している、と理解すると納得がいかない、とつまずく人が出てきても当然です。でも断絶なんです、死と復活との間は!

 

 逆にイエス様の死の冷厳な事実の前でたじろがない人がいるでしょうか? スイスのバーゼル市立美術館に、ホルバインが描いた「キリストの死」が展示されています。あのロシアの文豪ドストエフスキーは、バーゼルを訪ねて、その横に長い、横たわる死せるキリストだけが描かれた絵を見て、霊感に打たれたような衝撃を受けた、と『作家の日記』に記しています。私もこのホルバインの絵を見るために、何度もバーゼル留学中に私立美術館を訪ねました。

 

 私たちは、イエス様の死を前にして、「我ら涙もてひざまずき、墓の中なる彼(イエス)に呼びかけん。憩いたまえ、安らかに。安らかに憩いたまえ」(J.S.バッハ『マタイ受難曲』最終合唱)、と祈るしかないわけです、文字どおり、涙しながら。

 

3.5 復活は、命の創造者なる神様の「新しい命の創造」

 復活は、命の創造者なる神様の「新しい命の創造」です。(クルマン前掲書46ページ参照)「新しい命の創造」として復活を理解すると、創造者なる唯一の神様の働き・業に焦点が当たります。つまり、神様の初めの天地万物の創造の業を信じ、自分自身を被造物(造られた者)と理解しうる人は、終末時の死人の復活を、そしてその初穂としてのキリストの復活を信じることが、容易にできます。逆も真です。復活における神様の命の力による新しい創造を信じる人は、当然最初の宇宙万物の創造を信じることが容易になります。

 

3.6 復活までの中間時と先祖供養、そして希望

 復活は、その初穂としてキリストが甦らされたことと、キリストの再臨の時に私たちが甦らされることの間、「中間時」を指し示します。現在の時を生きる私たちに、死後にシェオール(陰府)において眠っている死者たちにとっても中間時であることを、意識させます。そこに今を生きる私たちと死者たちのつながりが開けてきます。「我は、聖徒の交わりを信ず」と使徒信条が告白するのは、今生きている教会員同士の交わりだけではなく、まさにこの生きている者と死者たちのつながりを表現しています。祖先を神として敬う「祖先崇拝」ではなく、「先祖供養」を正しく位置づけ、そのつながりを意識することができます。

 

 多くのプロテスタント諸教会は、盆に死者のための特別礼拝をしません。でもカトリック教会は盆に「死者のためのミサ」を捧げています。学ぶべきです。アフリカの教会は、「イエス・キリストは我らの先祖」と告白して、キリストを媒介として、自分たち生きる者と死者としての先祖との関係を理解しています。なぜなら洗礼は、カトリック教会の理解とは異なり、救いの絶対必要条件ではないからです。たとえ先祖たちが洗礼を受けていなくても、プロテスタント的には問題ではありません。この点では、エキュメニカルにアフリカの教会から学ぶべきものが、沢山あります。

 

 そして未来を目指して生きることで、復活は、私たちに希望を与えてくれます。中国の想像上の動物バクが、人の悪夢を食べて生きるなら、私たち人間は、希望を食べて生きる存在です。希望があればこそ、私たちはそれに向かって現在の時を充実して生きることができます。復活を信じる信仰は、希望の供給源です。

 今はまだ最初の創造(天地万物の)も復活という新しい創造もともに信じられない、という方もおられると思います。そういう方もこのコラムを楽しんでくださり、読み続けてくださると、感謝です。

 

 次回予告

 ということで、次回は「神様の創造 創造物語の理解を巡って」です。そこでは、聖書は「神様の言葉」にして、「人間の言葉で人間が書いた書物」という二面性を持つことが主張されます。だから神様の言葉として、聖書は、一字一句間違うことなく神様の言葉だと主張する「逐語霊感説」=「聖書原理主義」の矛盾が取り上げられます。宇宙物理学が提示する宇宙像と創世記の創造物語が描く神様の創造は、相互に相容れないものなのかどうかが、検討されます。乞うご期待!

畠山 保男

 

 

HOME