第4回 キリスト教とローマ帝国

第4回 キリスト教とローマ帝国

 はじめに

 ナザレのイエスが歴史に登場し、ローマ帝国によって十字架上で処刑され、そして教会が成立し、パウロが宣教し、殉教し、キリスト教迫害が襲来しました。そしてコンスタンチヌス大帝によるキリスト教公認、さらにテオドシウス帝によるキリスト教の国教化というキリスト教会の展開は、これ全てローマの共和制末期から西ローマ帝国の滅亡に至るまでの時代でした。つまり、キリスト教会が成立し、発展する時代は、ポンペイウスによるローマのパレスチナ支配から西ローマ帝国の滅亡に至る時代と重なるわけです。ですからローマ帝国によるパレスチナ支配という歴史の枠組みを外しては、教会の苦難の歴史を理解することはできません。これから、その歴史の経緯を素描します。興味のある方は、どうぞお読みください。

 

(目次)

  はじめに

  1.その前史

  2.第一次ユダヤ戦争とユダヤ教の運命

  3.エズラ・ネヘミア改革による律法の実践

  4.ローマ帝国のユダヤ支配とイエス様の十字架刑

  5.皇帝ネロと最初のキリスト教迫害、そしてパウロの殉教

  6.二つの主告白をめぐる戦い 

  7.「主」告白と魚とXPのアナグラム

  8.マルチュリア(証し)が殉教の意味をもった

  9.デオクレチアヌス帝の四帝統治とキリスト教迫害

  10.コンスタンチヌス大帝の「ミラノ勅令」(313年)へ

  11.テオドシウス帝によるキリスト教の国教化とその後

  おわりに

 

 

1 その前史

キリスト教とローマ帝国の関係は、すでにイエス様の時代以前に始まっています。その始まりは、シリアのセレウコス朝から独立して、マカバイ朝という独立国がユダヤに成立して以後のことです。ちなみに、この独立戦争の経緯を記した『マカバイ記』という書物が、外典(カトリック教会では第二正典)に2冊、偽典に2冊もあります。いかにユダヤの独立が重要な出来事だったかを示すものです。そして、12月のクリスマス以前に祝う「ハヌカー祭」というユダヤ教の祭りは、この独立戦争の勝利の後、エルサレムの神殿を清めて、ローソクを灯して祝ったことに由来します。現代ではこの「ハヌカー祭」に用いられるメノラー(普通7本の枝を持つ燭台)は、一本増えて8本の枝の燭台となり、名前も「ハヌキア」という特別な名前で呼ばれます。

 

このユダヤの独立は、共通紀元前2世紀のことです。マカバイ朝はかつての北王国イスラエルの領土、サマリアとガリラヤもやがて奪い返します。しかしサマリアとガリラヤは、かつての北王国の10の部族の残りの民と、アッシリアが強制的に移住させた異部族が混住し、部族間の結婚も一般化していた地域です。ところが、南のユダヤ地方は、新バビロニアの補囚民であったユダヤ人たちが、アケメネス朝ペルシャによって許可されて、帰還民として故郷に帰還します。そして、エズラ・ネヘミアの改革によって、異民族同士で結婚していたユダヤ人は、離婚を迫られました。(エズラ記10章参照。

 

訳者は、「異民族の妻子との絶縁」という小見出しをつけています。)こういう生木を裂くような離婚の強制に反対する第三イザヤのような預言者もいましたが(イザヤ書56章他)、この政策は、貫徹されたようです。それ以来ユダヤ人の間に、自らの民族としての純潔を誇る偏狭な民族主義が広がります。その視点からすると、エズラ・ネヘミアの改革を経験していないサマリア人もガリラヤ人も共に混血の民とみなされ、軽蔑の対象になったわけです。ユダヤ人の差別感情が、サマリア人やガリラヤ人との対立をひきおこします。

 

2. 第一次ユダヤ戦争とユダヤ教の運命

 でもこの対立は、共通紀元70年に終わります。と言うのも、この年に67年から始まったローマに対する第一次ユダヤ戦争が、ユダヤ人の敗北で終わり、神殿が破壊され、祭司階級であるサドカイ派が歴史の舞台から消え去ったからです。こうしてユダヤ民族の危機が訪れ、それは、ユダヤ教自体の危機でもありました。この時のローマ側の将軍が、二人とも後に皇帝となるウエスパシアヌスと彼の息子テイトウスです。このテイトウスが、エルサレムを落城させます。(二人については、スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』第8巻当該箇所参照 岩波文庫

 

 この瀕死の重傷を負ったユダヤ教を不死鳥のごとく蘇らせたのが、ヨハナン・べン・ザッカイと言うラビでした。彼は、陥落寸前のエルサレムの秘密の抜け穴から脱出して、ファリサイ派によるユダヤ教の再生を成し遂げたのです。この功績により、彼は、ラバン(大ラビ)という称号を与えられています。ラバンという職務は、この時代5人のラビにしか与えられませんでしたが、後の4人はみんなヒレル家の人々であり、ヨハナン・べン・ザッカイだけがヒレル家以外のラバンということです。いかに彼の功績が、高く評価されたか、この事実を見てもわかります。こういう危機的な状態になって、ユダヤ教は、この時代例外的に異民族への宣教に乗り出します。こうしてユダヤ教は、この時代キリスト教と異邦人宣教を巡って競合関係になりました、そのことが「学者・ファリサイ派に対するイエス様の批判」として、マタイ福音書の23章に反映されています。

 

 「律法学者とファリサイ派の人々、あなた方は不幸だ。あなたたち偽善者は、不幸だ。改宗者を一人作ろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者が出ると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」(23章15節)

 全くこのイエス様のファリサイ派批判が、どれだけキリスト者にファリサイ派に対する悪いイメージを与えてきたか、ため息が出ます! でも、皆さん、ご存知ですか? このマタイ福音書23章のファリサイ派批判は、ユダヤ人が読むと、ファリサイ派自身の内部討論・内部批判のように読める、ということを。ここで槍玉に挙げられているようなファリサイ派も実際にいた、ということです。しかしファリサイ派は、全員がこんな人間ではなく、「真のファリサイ派」も存在した、ということです。それが、シャンマイ派とヒレル派の2大流派ということになります。

 

 つまり、マタイ福音書23章イエス様のファリサイ派批判は、ファリサイ派の近くにいた彼の内部批判として読める、というユダヤ教の側の理解に留意すべきです。その批判の尻馬に乗って、よく知りもしないで、私たち異邦人キリスト者がファリサイ派批判を繰り返すことは、慎むべきです。

 

 当時のファリサイ派を引き合いに出して言いたいことは、こうしてユダヤ教は、異邦人宣教に例外的に乗り出すほどユダヤ人が少なくなり、もはや純血主義と言ったり、それを根拠にサマリヤ人やガリラヤ人を差別するということは、雲散霧消した、ということです。なぜならファリサイ派サンへドリン(最高法院)自体が、ユダヤに存続できず、サマリアへ、南ガリラヤへ、そして北ガリラヤへとその本拠を転々と移さざるを得なかったからです。

 

. エズラ・ネヘミア改革による律法の実践

 エズラ・ネヘミア改革に戻ります。宗教的にはエズラ・ネヘミア改革の主眼点は、トーラーの結集(けちじゅう)と、それに基づくイスラエル宗教の改革です。つまり、トーラーが、この時代に今ある形に編集され、正典的な価値を獲得した出来事です。ここから今までの「イスラエル宗教」は、「ユダヤ教」と呼ばれるようになります。そしてトーラーの中のハラハー(律法)をシナゴーグで学び、日々それを実践することが信仰の中心に置かれるようになります。これが、神殿崩壊以後にもユダヤ教が生き残った、大きな理由です。

 

. ローマ帝国のユダヤ支配とイエス様の十字架刑

 やがてローマのポンテイウスがシリアのセレウコス朝を支配し、マカバイ朝を征服して、エジプトまで遠征します。こうしてユダヤの独立は、1世紀半ほどで失われ、ローマの属国となります。そしてマカバイ朝の支配領土を支配したのが、イドマヤ人のヘロデ王でした。

 このヘロデ王の晩年にイエス様は、ダビデの街ベツレヘムで生まれたと(伝えられ)、ガリラヤのナザレで育ちました。ですから、福音書、特にマルコ福音書の背景としてのガリラヤのエートス(精神風土)を理解することは、とても重要な課題です。(田川建三『原始キリスト教史の一断面』勁草書房 1968年 参照。)

 

 ヘロデ王の死後、彼の領土は3人の息子に分割され、支配されます。ところがユダヤ地方を支配したアルケラオス(マタイ福音書222節)は、ローマ帝国の怒りを買い、その地位を奪われます。代わってローマは自らユダヤの直轄支配に乗り出し、植民地化します。こうしてエルサレムにシリア総督支配下の代官が置かれることになりました。これが、イエス様の十字架に責任のあるポンテオ・ピラトが、ローマ帝国の代官として登場する所以です。

 

 ですから、この十字架刑を巡ってキリスト教とローマ帝国は、最初の衝突をした、と言えます。十字架刑は、ローマ帝国の反逆者のための極めて残虐な処刑方法です。ですから、イエス様の十字架刑の最終責任は、ポンテオ・ピラトに、つまり、ローマ帝国にあることは、疑い得ません。もちろん当時のユダヤ教の大祭司を頂点とする神殿貴族たち(この人たちをサドカイ派と言います)も、その責任の一端を担っています。なぜなら「受難物語」が語るように、イエス様は、最初に大祭司カイヤファの官邸で裁かれ、ついで夜にもかかわらずピラトの官邸へ送られ、二重権力によって、二重に裁かれて、十字架に架けられたからです。

 

5. 皇帝ネロと最初のキリスト教迫害、そしてパウロの殉教

5.1 ネロにより犠牲のヤギとされたキリスト者

 次にキリスト教会がローマ帝国と向き合わざるを得なくなるのは、皇帝ネロの時です。共通紀元64年にキリスト教会最初の迫害が、皇帝ネロによって始まりました。ローマの町の一部を放火させ、それを高みの見物しながら、詩を朗誦するなんぞというふざけた振る舞いに出ます。(スエトニウス前掲書第6巻ネロ38)そして自分の失政に対するローマ市民の批判をかわそうとして、ネロはキリスト者を「犠牲のヤギ」に仕立て上げます。ローマのコロセアムで野獣の餌食にし、キリスト者を虐殺しました。(スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』第6巻ネロ参照 岩波文庫。スエトニウスは、キリスト教迫害には触れていない。それはネロだけではなく、ドミチアヌスの迫害についても言える。ネロ犯人説に言及するのは、タキトウス『年代記』15・44です。)

 

 この時パウロも殉教したと言われています。ただ彼の場合は、ローマの市民権を持っていたので、別な場所で斬首された、という説もあります。ペトロの殉教もこの時だった、とローマ・カトリック教会は主張しますが、パウロの殉教よりは、可能性は低いでしょう。「ペトロの後継者」がローマ教皇である、という主張のために、ペトロのローマ殉教説が伝説として生まれたのではないでしょうか?

 

5.2 新約聖書の二つの国家理解

 ちなみに、新約聖書には、二つのローマ帝国に対する理解があります。一つは、ローマの信徒への手紙13章です。ここでパウロは、ローマ帝国を「神によって立てられた上よりの権威」として定義します。

 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。」(13章12節)

 パウロは、市民権を持つローマの市民でした。ユダヤ人と宣教活動において緊張関係に陥った時、彼はこのローマの市民権を活用して、逮捕された後、ローマ皇帝に直訴します。(使徒言行録25章以下)こうして彼は、ローマ兵に護送されて、帝国の都ローマへ旅立つのでした。つまり、帝国権力の庇護を受けて、かつてギリシャ語を話す異邦人教会へ手紙を書き送った帝国の首都へ向けて、それ自体波乱に満ちた船旅を体験することになります。皇帝に直訴するなんぞという特権を行使できたパウロは、この「ローマの信徒への手紙」を書いた時点では、ローマ帝国を「神によって立てられた上に立つ権威」として信じていました。先ほど引用した文面からは、そのことをパウロは露ほども疑っていないように見えます。

 

 「実際支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者から褒められるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、悪を行えば、恐れなければなりません。権威者は、いたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけではなく、良心のためにもこれに従うべきです。(13章35節)

 

 ここで、パウロに対して問いが提出されるべきです。

1. そもそもパウロの主であるナザレのイエスが、ローマ帝国の十字架にかかって死なれたことを、パウロはどう考えていたのだろうか? 

2. すでにこの十字架刑にローマ帝国の悪と暴力の本質が現れていたのではないだろうか? 

3. 十字架刑に対するローマ帝国の責任を、パウロはどう理解したのか? 

4.パウロ自身にもネロ帝の迫害によって殉教する事態が、やがて迫ってくる。処刑直前のパウロは、それでもローマ帝国の権威者を善に報いる「神によって立てられた上よりの権威」と見ることができただろうか? それとも以前に書き記したローマの信徒への手紙13章のローマ帝国理解を訂正したのだろうか?

 この点に関するパウロの最後の境地は、何も書き残されていません。しかし、「懐疑の解釈学」による想像力を用いれば、パウロは、以前の立場を維持することはできなかった、と私には思えます。

 

5.3 ドミチアヌス帝の迫害とヨハネ黙示録

 ヨハネ黙示録は、黙示文学の文学類型に入ります。それは、ローマ帝国によるキリスト者迫害に対する抵抗の文学です。実際にこの著者が経験したのは、ドミチアヌス帝の時代の皇帝崇拝の強化という出来事でした。この事態にぶつかって、多くのキリスト者は「皇帝は主なり」と告白するのを拒んで、殉教の死を遂げたわけです。これが、ヨハネ黙示録に反映されています。(小河陽『ヨハネの黙示録』2018年 講談社学術文庫参照。なおこの書物にはヨハネ黙示録に関する翻訳と解説だけではなく、キリスト教絵画が多く収録されており、その意味でも一見の価値があります。)

 

 同じ13章でもヨハネ黙示録13章のローマ帝国理解は、ドミチアヌス帝のキリスト教迫害の中にあるぶんだけ、非常に批判的であり、「底なしの深淵から登ってくる獣」として描いています。(ヨハネ黙示録17章8節)この獣は、7つの頭と10本の角を持ち、「バビロンの大淫婦」を乗せて現れます。(17章35節)「バビロンの大淫婦」とありますが、実際はローマを暗喩させています。7つの頭とは、ローマ市の7つの丘のことだからです。

 

 ヨハネ黙示録に描かれているローマ帝国は、もはやパウロが書き残したような、「神によって定められた上よりの権威」ではなく、良心を持って従うべき国家でもありません。むしろそれは、サタンを象徴する「龍」に従う国家として描かれています。キリスト者は、この二つの13章の間を揺れ動く国家を、預言者的洞察を持って深く理解し、神の定めとしての国家なのか、サタンの(すなわち悪の権化の)手下としての国家なのかを見分ける知恵が必要です。そして、この時代に何度も襲ってきた皇帝崇拝の強要と、それに深く結びつくキリスト教信仰の否定と迫害という事態に至る時、これを「信仰告白の事態」として受け止めるべきです。

 

5.4 信仰告白の事態とは?

 「信仰告白の事態」とは、異教の神々を崇拝するように人々からであれ、権力の命令からであれ強要された時に、信仰を言い表して、抵抗して、戦う事態のことです。もちろんそうなる前に、その動きを阻止するために、キリスト者は、「預言者的な見張りの役」を果たすべきです。それでも「信仰告白の事態」を迎えてしまったら、私たちは「抵抗権」を発動して、信仰を守るべきです。そもそも「信教の自由」を否定した時点で、国家は、自らの市民に対する義務を放棄しています。「信教の自由」は、近代社会の形成期における人権の中の自由権の最初の戦いの目標でした。改革派的な「抵抗権」は、この信教の自由を守るための人間に与えられた権利です。

 

6. 二つの主告白をめぐる戦い 

6.1 「主」という用法

 タナハ(教会が旧約聖書と呼んでいるヘブライ語聖書)では、神様はローマ字に転写すればYHWHと書く御名を持っています。ところが、ユダヤ人たちは、共通紀元前3世紀ごろから、この御名を呼ぶのをやめて、アドーナイ(主)と読み替えて、呼ぶようになりました。「あなたは、みだりに我が(神の)名を唱えてはならない」と十戒の第3戒にあるからです。無意識にでも神の御名を汚すことを恐れたユダヤ人は、神の御名を唱えること自体をやめてしまったわけです。ここに私は、ユダヤ人の徹底性を見ます。

 

 ところが新約聖書では、最も簡潔なメシア=キリストへの信仰告白は、フィリピの信徒への手紙にあるように、「イエス・キリストは主(ギリシャ語=キュリオス)なり」(2章11節)というものです。そこから「主」という単語が、神を指している場合とキリストを指している場合の2つの用法を持つことになりました。アドーナイ(主)というのは、ユダヤ人にとっては、唯一の神に対する称号です。それをメシアなるイエス・キリストにも用いて、ギリシャ語でキュリオス(主)と呼ぶには、理由があるはずです。

つまり、一方に皇帝崇拝における「皇帝はキュリオス(主)なり」という告白があり、他方でキリスト者は、キリストを呼ぶのに、このキュリオスという表現以外他の言葉を見出せなかった、ということでしょう。しかし、この「キュリオス」用法が、のちに異邦人キリスト者にキリストは神と等しい=神という誤解を与えたとしたら、ことは重大です。それと同時に、このキュリオスの二重の用法によって、キリスト者は、神様がご自身の御名を持っていることを、すっかり忘れて今日に至っています。

 

 ドイツ語では「主」のことをHerr(ヘール)と言います。ユダヤ教と対話する神学者たちは、神様を指して言う時にはHERRと全て大文字で書き、キリストを指すときにはHerrと普通に書き記して、分けています、意識的に。もちろん発音としては同じですが、こういう努力が、ユダヤ教との対話から生まれてきているのです。

 

6.2 イエスが主なのか、皇帝が主なのか?

 そしてこの「イエスはキュリオス(主)なり」という告白は、当時のローマ帝国の皇帝崇拝、つまり「皇帝はキュリオス(主)なり」という告白と、正面衝突することになったのです。皇帝崇拝は、もともとローマ人にはなかったものだったと言われています。これは、ギリシャ人やオリエントから到来したものでした。

 

 二つの「主告白」を巡って、すなわち、「イエスは主なり」と「皇帝は主なり」という告白を巡って、「真のメシア(救世主)は誰か? という問いがキリスト者に突きつけられます。もっともローマ皇帝は、即位した時から神になるのではなく、功績ありと認められた皇帝だけが、死んだ後に元老院に推挙され、承認されると神々の列に加えられる、というのが最初の決まりでした。キリスト者とは、ナザレのイエスをメシアとし、主と信じた人々ですから、人間にすぎないローマ皇帝を「主」と認めるわけにはいかなかったのです。

 

 ここに原理的な対立が起こります。ローマ帝国の側からすると、皇帝崇拝を認めさえすれば、後は自由にどうぞ、ということでした。多くの多神教は、皇帝崇拝一つ付け加えることには、なんのためらいもなかったでしょう。でもユダヤ教とキリスト教は、そうはいきません。皇帝崇拝を認めたら、唯一神信仰が失われます。ローマ皇帝は、イスラエルの神とはなんの関係もないわけです。こういう緊張が、教会とローマ帝国の間に存在した、ということは記憶しておく必要があります。

 

6.3 ユダヤ教の場合

 この緊張は、ユダヤ教とローマ帝国の間にも存在しました。だからユダヤ人は、第一次ユダヤ戦争(共通紀元6770年、マサダの要塞の陥落は、73年)、第二次ユダヤ戦争(別名バル・コホバの乱 共通紀元132135年)などでローマ帝国からの独立を目指して戦い、いずれも手痛い敗北を喫したのです。第二次ユダヤ戦争の時のローマ皇帝は、ハドリアヌスでした。彼は、ユダヤをパレスチナに、エルサレムをアエリア・カピトリーナに改名させて、ユピテル神殿をそこに建立させ、ユダヤ人に割礼禁止令を出して、ユダヤ教を圧迫します。こうしてユダヤ色を、この地域から一掃しようと試みます。これらの政策がユダヤ人の反乱の引き金を引いたわけですから、「五賢帝」の一人とされていますが、本当に賢かったのでしょうか、ハドリアヌス帝は? キリスト教は、ハドリアヌス帝を好意的に評価しますが、それはユダヤ教とは異なり、好意的に扱われたからです。(レモン・シュヴァリエ レミ・ポワニョ『ハドリアヌス帝』 ク・セ・ジュ文庫 白水社 アントニー・エヴァレット『ハドリアヌス』 白水社参照)

 

. 「主」告白と魚とXPのアナグラム

 「イエス・キリストは、キュリオス(主)なり」という告白とともに、初期キリスト教には、もう一つ短い信仰告白がありました。それは魚が教会の象徴(シンボル)になる理由でもあります。「イエス・キリスト、神の子、救い主」という告白です。このギリシャ語をラテン文字で転写すると、「Iesous Xristos theou huios soter」となり、その頭文字を合わせると、「ixthus」(イクシュス)となります。これがなんとギリシャ語で「魚」という単語なのです!

 

 初代教会のキリスト者にとって、十字架は教会のシンボルにするには、あまりにも生々しいローマ帝国の残虐な処刑の方法でした、とても自分の信仰の飾り物(ペンダント)として、首にかけるような代物ではありませんでした。そこで魚が、キリスト告白を背景にして、教会の象徴となったのです。

 

 もう一つ教会の象徴(シンボル)は、ギリシャ語のX(キー)とP)ロー)を組み合わせたものです。それは、Xristos(クリストス)の最初の2文字です。ギリシャ語ではpは、ローと読み、英語のrの発音です。コンスタンテイヌス大帝が、このアナグラムを用いた、と言われています。

 

8. マルチュリア(証し)が殉教の意味をもった

 さて、こうしてキリスト教会は、ローマ帝国によって迫害されることになります。でもローマ帝国によるキリスト教迫害というと、年がら年中迫害されていたような感じを受けますが、事実はそうではありません。迫害がやんで小康状態になったり、迫害があっても帝国の全領土ではなく、局所的な迫害だったり、その時々の皇帝と地方の総督や代官の熱意や時代によって様々です。特に共通紀元3世紀末までは、キリスト者人口は、あまり増えなかったので、迫害といってもいくつかの地方や都市を例外として、迫害による殉教はそんなに多くはなかった、とみなされています。(松本宣郎『キリスト教徒が生きたローマ帝国』 2006年 日本キリスト教団出版局参照)

 

しかし、全体として多くのキリスト者が、殉教の死を遂げたことは間違いありません。キリストを告白し、証しすることが迫害の対象となり、マルチュリア(証し)というギリシャ語が、「殉教」の意味を持つほどだったのです。「殉教者の血は、教会の種子」と言われたのは、そのためです。殉教者が出るたびに、逆にキリスト教へ改宗する人が増えたからです。

 

 ローマの信徒たちは、地下墓所(カタコンベ)に逃れ、一部の人たちは、そこで生活をしたようです。もちろん地上の生活をしていた信徒たちの協力があったからできた生活だったと思われます。

 

9. デオクレチアヌス帝の四帝統治とキリスト教迫害

9.1. その経緯

 キリスト教をローマ皇帝として初めて公認した、コンスタンチヌス大帝について語る前に、デオクレチアヌス帝の4人の皇帝(2人の正帝と2人の副帝、しかし実質的にはデオクレチアヌス帝中心の支配体制)というローマ帝国の分割支配について触れる必要があります。彼は、ローマ神話のパンテオンの最高神ユピテルと彼の息子ヘルクレスのそれぞれの息子、つまり二人の息子を第1と第2の正帝とし、それぞれの正帝の養子を二人の副帝とする設計図を描き、デオクレチアヌス帝は実行します。それは、ローマ帝国の領土が拡大し続けて、一人の皇帝では支配しきれなくなったからでした。

 

 紆余曲折の後、コンスタンチヌス大帝の父コンスタンチウス・クロルスは、副帝から正帝に昇格します。この「四帝統治」と呼ばれる体制は、ドミチアヌスの引退後も継続し、4期まで続きます(共通紀元286年311年)。その間にコンスタンチウス・クロルスも死亡し、彼の息子が、副帝となり、やがて正帝の一人となります。彼が、のちに大帝と呼ばれたコンスタンチヌスです。

 

9.2 迫害による背教者の扱いをめぐるドナトウス派論争

 デオクレチアヌス帝の時代に、皇帝崇拝がまた強化されます。体制に合わないということで、まずマニ教が迫害され、ついでキリスト教が、迫害によって深刻な打撃を受けます。この時の迫害で一度転んだキリスト者が、迫害がやむと、教会への復帰を申し出ます。そこで問題になったのは、一度転んだ司祭のかつての洗礼執行は有効か否か、という聖礼典をめぐる問題でした。

 

ドナトウスという北アフリカの司教は、一度転んだ司祭の洗礼を無効として、自分たちの教会を独立させ、活動を始めます。一時北アフリカの教会は、このドナトウス派によってほとんど席巻されます。のちに「ドナトウス派論争」と呼ばれる論争の発端です。これもこの時代のキリスト教迫害にその原因があります。「ドナトウス派論争」の決着を、同じ北アフリカのヒッポの司教アウグスチヌスがつけるわけですが、彼は、聖礼典の有効性は、それを執行する人によらず、聖礼典自体が効力を持っている、として迫害にあって一度信仰を否定した背教者の教会復帰を認め、そのかつての聖礼典執行を有効として、教会の分裂を乗り越えようとしました。でもドナトウス派に対しては、厳しい判断でした。彼らは、異端の烙印を押されたからです。

 

9.3 現代の聖礼典執行問題

 ちなみに今日でもカトリック教会は、聖礼典において「事効論」を採ります。「事効論」とはつまり、聖礼典は、事柄自体が有効であり、緊急の場合誰が執行しても良い、という立場です。これは、特に「終油の秘跡」の執行に現れます。死者を天国に送るには、カトリック教会ではこの「終油の秘跡」の執行が必要ですが、司祭が間に合わなければ、そばにいる信徒でもこれを執行することができます。逆にプロテスタント教会は、「人効論」の立場ですから、聖礼典執行者の資格が、やかましく問われます。古代教会のドナトウス派みたいですね。

 

 プロテスタント教会は、ルターの改革以来、カトリック教会の7つの秘跡のうち5つは聖書的根拠がない、という理由で切り捨て、洗礼と聖餐だけを「聖礼典」として残しました。ところが、洗礼をまだ受けていない者(未受洗者)が聖餐に預かることは、認めません。洗礼と聖餐の順序を、卵と鶏の関係と思っている人、何はともあれ教会の秩序が大切だと思う人、あるいは教会の規定にこう書いてある、ということを盾にとる人は、未受洗者の陪餐を拒否するでしょう。でも救いの出来事は、教会の秩序を乗り越えて行くのです。逆に言えば、教会の秩序というタガをはめれば、聖霊の働きは、窒息してしまうでしょう。

 

 ちなみにドイツ語圏の福音教会では、按手を受けていないVikar(ヴィカール=牧師補)でも、按手を受けた牧師がそばにいれば、洗礼も聖餐も執行可能ですけど、何か? 逆に聖礼典でもないのに、葬式・告別式は、市民が牧師による執行を望みます。葬式・告別式は、社会的な影響が大きいからです。Vikarには挙式して欲しくない、とか思う人もたくさんいたりするからです。

 

 もう一つ、スイスの改革派教会では、幼児洗礼を受けているが、まだ堅信礼を受けていない子供達と共に聖餐の恵みを分かち合おう、という考えが広まっています。そもそも堅信礼は、幼児洗礼があるから必要になるわけです。この幼児洗礼を否定したのが、宗教改革時代のアナバプテスト(再洗礼派)でした。そしてこの幼児洗礼否定を受け継いでいるのが、バプテスト教会です。自ら信仰を言い表すことができる成人洗礼のみを認め、彼らは、自ら洗礼を再び受けたわけです。ちなみに現代では、カール・バルトが幼児洗礼否定論を展開しています。古代教会も共通紀元3世紀ごろまでは、成人洗礼だったはずです。

 

 「ところ変われば、品変わる」ですが、これドイツ語では、‘ Andere Laenderandere Sitten’(アンデレ レンダー、アンデレ ジッテン。よその国には、別な風習)と言います。聖礼典問題をめぐって日本基督教団の執行部は、「井の中の蛙」になっています。もっとエキュメニカルに視野を広げ、学ぶべきです。そうすれば。人間が書いたものに過ぎない「教憲教規」なんぞに縛られずに、寛容にお互いの相違を認め合うことが可能です。教会は他者に開かれた共同体のはずです。洗礼を受ける前に礼拝で「みなさんと一緒に聖餐に与かりたい」、と思った人がおれば、その人も聖餐の恵みに招かれている、と思うことは、教会が「自由のオアシス」であることの端的な振る舞いではないでしょうか?

 

 4千人・5千人の共食の記事が福音書にあります。これも「懐疑の解釈学」を用いれば、その中に異邦人もいたが、共に食事はしていなかった、と誰が言えるでしょう? 異邦人も多くいたガリラヤでの出来事です。開放的なイエス集団において、異邦人に「まず割礼を受けてから、一緒に食事しよう。今日はとりあえず帰れば」というつれないことを、イエス様は言われなかった、と私は想像します。

 

10. コンスタンチヌス大帝の「ミラノ勅令」(313年)へ

 キリスト教会が、ローマ帝国によって公認宗教の一つとされるのは、共通紀元313年のコンスタンチヌス大帝のいわゆる「ミラノ勅令」によります。こうして教会は、約3百年にわたる長い迫害のトンネルをくぐり抜けて、ローマ帝国公認の宗教の一つになりました。さらに彼は、325年にキリスト者でもないのに、皇帝として「ニカイア公会議」を招集します。この批判をかわそうとして、コンスタンチヌス帝は、すでにこの時信仰を抱いており、ただ洗礼だけが遅かったのだ、という主張があります。でもそれは、証拠がなく、証明できません。こうして、第1回エキュメニカル(全地)公会議が、開催されました。教会の公会議として、それってあり?という疑問が出てきます。ニカイア公会議の非神話化が必要です。

 

 それはともかく、コンスタンチヌス大帝が、ローマ皇帝として初めてキリスト者皇帝となったことは事実です。実際に洗礼を受けたのは、死の直前だったようですが、そこまでに徐々に信仰を固めたのだろう、と言われています。しかし彼に洗礼を授けたのは、ニコメデアの司教エウセビオスでした(共通紀元337年)。ところがこの司教は、ニカイア公会議で異端とされたアレイオス派の司教でした。正統派教会としてはこれでは都合が悪いので、コンスタンチヌス帝は、ローマの総大主教シルウエステルからすでに洗礼を受けていた、という伝説がのちに作られます。でもこの伝説が成り立たないのは、共通紀元337年には、シルウエステルは死去していて、コンスタンチヌスに洗礼を授けることは、不可能なのです。(ベルトラン・ランソン『コンスタンチヌス その生涯と治世』143ページ)

 

 ここからもわかるのは、教会政治に関しては、彼はともかく教会の統一を望んで、アレイオスの異端宣告も彼の望むところではなかったようです。教会の統一とローマ帝国の統一とは、コンスタンチヌス帝にとっては、連結する事柄だったからです。

 コンスタンチヌスは、デオクレチアヌス帝の四帝統治とは異なり、ローマ帝国を再統一して、一人の皇帝の支配にその体勢を戻そうとしました。しかし、デオクレチアヌス帝が、すでにローマ神話を用いて四帝統治を始めていたので、帝国統一の新しいイデオロギーが、彼には必要でした。つまり、ローマ神話には戻れなかったのです。そこへキリスト教が登場します。コンスタンチヌス大帝が、その時キリスト教に求めたのは、「帝国統一のイデオロギー」でした。つまり、「一人の神、一人の主(キリスト)と聖霊、一人の皇帝(正帝)と彼の息子の二人の副帝、一つの帝国」ということです。この場合、一人の(父なる)神に、キリストと聖霊が従属すると理解され、それが、一人の正帝と二人の副帝の関係の雛形になります。

 

 ニカイア公会議で制定され、公布されたのが、「二カイア信条」です。異端とされたアレイオスに対するアナテマ(呪い)を含んだキリスト教の信条ってなんでしょうね? アレイオス派論争におけるキリスト論については、また触れる機会があるでしょう。

 ここまでベルナール・レミイ『デオクレチアヌスと四帝統治』ク・セ・ジュ文庫 白水社。ベルトラン・ランソン『コンスタンチヌス その生涯と治世』ク・セ・ジュ文庫 白水社)

 

11. テオドシウス帝によるキリスト教の国教化とその後

11.1 キリスト教の国教化

 キリスト教会をローマ帝国唯一の国家宗教にしたのが、テオドシウス帝です。(教会は、感謝の念を込めて彼も大帝と呼びます。)380年のことです。逆にこれまで公認されていた宗教は、ユダヤ教も含めて全て禁じられました。キリスト教を除く他の全ての宗教は、その存在を否定され、禁教(禁じられた宗教)になってしまいました。つまり、長い迫害の後、キリスト教会だけが最後に一人勝ちした、ということになります。この余勢をかって、翌年381年に首都のコンスタンチノポリスで第2回エキュメニカル公会議が開催され、「ニカイア信条」の改訂版である「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」が制定され、発信されます。そこにはアナテマ(呪い)が除かれています。

 

11.2 「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」

 現在世界教会協議会の信仰職制委員会は、この「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」を、全世界の教会が告白しうる「エキュメニカル信条」にしよう、と加盟教会に呼びかけています。それは、ニカイア公会議ではアレイオスが断罪・破門され、エフェソ公会議とカルケドン公会議では、ネストリオスやエウチェケス、そして彼に連なる「単性論派教会」が、断罪・破門されたからです。アレイオス派は別として、他の教会はいまも存在しており、ニカイア信条でもカルケドン信条でも一致できないからです。「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」のみが、異端分裂を経験していない、ということでもあります。

 

 でも問題はあります。「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」は、「ニカイア信条」の改訂版ですから、アレイオスを異端として切り捨てたことを踏襲しています。と言うことは、ユダヤ人キリスト者をも同時に切り捨てたわけです。ですから私は、ジンバブエのハラーレで開催された世界教会協議会総会で、信仰職制委員会のワークショップの折に、「今までの信仰職制委員会の議論では、ショアー(=ホロコースト)以後のユダヤ教との対話の成果が全く生かされていないのではないか?」、と訴えたのです。委員長のメアリー・タンナーさんは、そんな問題提起が来るとは思ってもいなかったようで、鳩に豆鉄砲状態でしたが、ドイツとオランダからの参加者は、私の問題提起に賛成してくれました。

 

11.3 テオドシウス大帝以後

 テオドシウス大帝の死後、再びローマは東西に分裂し、その後再び統一ローマ帝国が蘇ることはありませんでした。その前に、コンスタンチヌス大帝の甥とも言われる、皇帝にして背教者のユリアヌス帝による揺り戻しなどもありますが、そもそも分裂した西ローマ帝国自体が、いわゆる「ゲルマン民族大移動」によって、キリスト教会の国教化以後100年も経たない共通紀元476年に、滅亡してしまいます。カルケドン公会議(共通紀元451年)のわずか25年後のことです。

 

 西ヨーロッパの歴史は、ここから中世へと向かって行きます。それと同時に、ゲルマン諸部族へのキリスト教宣教が集中して繰り広げられます。その中には、すでにアレイオス派の信仰を持っていたゲルマン諸部族の正統信仰への再改宗も含まれます。生き残った東ローマ帝国(別名ビザンチン帝国)は、その後1千年にわたって存続し続けます。

 (べルトラン・ランソン『古代末期』ク・セ・ジュ文庫 白水社。)

 

 おわりに

 マカバイ朝の成立から約650年の歴史を駆け足で鳥瞰してきました。特にローマ帝国とキリスト教会の関係を見てきました。イエス様の十字架刑の責任は、二重権力にあり、すなわち、ローマ帝国とその当時の神殿貴族たち、サドカイ派にあり、ということをわかっていただければ、コラムニストとしては、幸いです。

 

 ちなみに、私は、キリスト教のテオドシウス帝による国教化を、諸手を挙げて歓迎する立場ではありません。というのも、これまで自ら迫害され、社会の弱者の側にいた教会が、勝利の美酒に酔いしれて、「戦う教会」(Ecclesia militans)から「勝利の教会」(Ecclesia triumpfans)に変貌し、内に向かっては異端弾圧、外に向かっては異教徒とりわけユダヤ人弾圧へと向かって行くことになるからです。

 

 すでに共通紀元325年のニカイア公会議から451年のカルケドン公会議に至る時代に、教会からユダヤ人キリスト者がいなくなります。こうして「ルーツとしてのイスラエル」(ローマの信徒への手紙11章1724節)の伝承を教会へ伝え、ユダヤ教とキリスト教の間を橋渡しする役割を担っていた、ユダヤ人キリスト者たちが消えて行くとともに、教会は非ユダヤ化し、ハルナックが言うように「ギリシャ化」して行くのです。(von HarnackLehrbbuch der Dogmenngeschichte”(『教理史教本』全3巻参照)この過程を私は、微力ながら逆に辿り、教会を「再ユダヤ化」しようと、ユダヤ教との対話に集中しています。「再ユダヤ化」と言う表現に語弊があると言うならば、「キリスト教的イスラエル神学」の構築、と言いましょう。

 さて、中世ヨーロッパ史の一端を、このコラムに書くときがあるでしょうか?

私が書くとしたら、共に迫害された教会であるヴァルドー派とチェコのフス派のことです。歴史好きの皆さんでそれをこのコラムで読んで見たい、と望まれる方は、どうぞお待ちください。

 

畠山保男

 

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