第5回 復活1 復活への誤解

第5回 復活を巡って その1(復活への誤解)

 

<目次>

1.はじめに

2.日曜日の聖日礼拝の起源としてのキリストの復活
3.「アブラハム的宗教」におけるキリスト教の復活信仰 
4. プラトン霊魂論における霊魂の不滅説と輪廻転生説
5. しかしこの輪廻転生説は、カースト差別を正当化します。
6. もっともお釈迦様の名誉のために言っておくことがあります。
7. なぜ輪廻転生しないことが解脱、救いなのでしょうか?
8. 復活の使信(メッセージ)とは?

 

 

.はじめに

 今年2019年の復活祭は、グレゴリオ暦では、ということは、これを使用している西方教会では、4月21日です。カトリック教会もプロテスタント諸教会も、一斉に復活祭=イースターを祝いました。キリスト教会を名乗る限り、祝い方に違いはあっても復活祭を祝わない教会はないと思います。ところで、復活祭を一番盛大に祝うのは、二つの東方正教会です。西方教会が降誕祭=クリスマスを一番重要視するのとは対照的です。

 

 復活祭とはなんでしょうか? キリストの復活も、多くの人には躓きなのでしょうか? それとも処女降誕よりは、受け入れやすいのでしょうか? 死人からの命の復活を、ギリシャの哲学者プラトンの「霊魂不滅説」及び「霊魂の輪廻転生」と混同して誤解している人が、キリスト者にも見受けられます。今回は、その誤解を解いて、聖書が語る復活とは何か?という問いに迫ります。

 

. 日曜日の聖日礼拝の起源としてのキリストの復活

 十字架に架けられて死なれたイエス様が、「三日目に死人のうちより(神様により)よみがえ」らされた出来事を、教会は、復活祭として当初から祝ってきました。こうして教会は、日曜日を聖日として集い、礼拝を神様に捧げます。この日曜礼拝・聖日礼拝の起源は、キリストが金曜日に十字架にかかって死んで、三日目の朝、週の初めの朝、つまり、土曜の日没から新しい週が始まり、一夜明けた日曜日の朝によみがえらされた、という聖書の記事に基づいています。(マルコ福音書16章他)

 

 最初期のキリスト者は、ほとんどがユダヤ人か「神を敬う人」と呼ばれた異邦人だったはずです。この異邦人たちは、教会が成立する以前は、ユダヤ教と関わり、イスラエルの神を信じていました。この最初期のキリスト者たちは、他のユダヤ人と同じく「安息日礼拝」を守っていました。エルサレムの住民なら神殿で、エルサレム以外の地域ではシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で。(ひょっとするとエルサレムにもシナゴーグがあったかもしれませんが、私はまだ確認していません。)そして土曜日日没に安息日が明けると、一夜明けた次の日の朝、つまり日曜日に再びどこか広い家に集って、キリストの復活を祝う礼拝を捧げていたと思われます(使徒言行録2章参照)。そういう意味で、復活信仰と聖日礼拝は、初代教会の当初から深い関係にありました。

 

3. 「アブラハム的宗教」におけるキリスト教の復活信仰 

 「アブラハム的宗教」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの3つの姉妹宗教のことを指します。元はイスラームが言い出した表現です。その心は、三者共にその起源をイスラエル民族とアラブ民族の先祖であるアブラハムにさかのぼる、という自覚、認識によります。というのも、アブラハムには二人の息子がおり、それはハガルから生まれた長男のイシュマエルと、正妻サラから生まれた次男のイサクです。イシュマエルは、アラブ民族の先祖となり(創世記16章他)、イサクは、息子ヤコブの12人の子供たちにより、イスラエル12部族の先祖となります。(創世記21、22、24章他)

 

 このアラブ民族から後にイスラームの開祖ムハンマドが出現します。ナザレのイエスの場合には、マタイ福音書の冒頭の系図の最初に「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストのトーレドート(系図)」(マタイ福音書1章1節)とあるように、イエス様は、ユダヤ人としてアブラハムの子孫であり、かつ現代でも理想の王としてユダヤ人から尊敬されているダビデ王の家系の出身である、と主張されています。というわけで、ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、三者共に元を正せばアブラハムにその出発点を持っているわけです。

 

 なぜ「アブラハム的宗教」について言及したかといえば、三つの姉妹宗教の中で、復活信仰を持っているのはどの宗教か、いうことを示したいからです。まず、イスラームにはメシア待望信仰がありません。終末待望信仰はあります。イスラームは、終末に神様(アラー)が直接現れて、生ける者と死者を裁く、とされています。ユダヤ教は、ご承知の方もおられるとおり、イエス様をメシアとは信じていませんから、来るべきメシアを待望しています。ユダヤ教の理解では、メシアの到来と同時に終末が始まりますから、あるいは、終末が始まると同時に、メシアが到来するので、メシアの苦難の死と復活があるとは主張しません。キリスト教は、メシアの苦難と復活は、ナザレのイエスにおいて出来事となった、と信じてきました。つまり、イザヤ書53章他の「苦難の僕」のメシア予言が、ナザレのイエスにおいて成就した、というのがキリスト教の立場です。

 

 メシア理解を巡る「アブラハム的宗教」三者の相違について触れたのは、キリスト教の立場から、他の二者を批判するためではありません。キリスト教信仰にとっての「メシアの復活」とその信仰を浮かび上がらせるためです。つまり、ユダヤ教とイスラームは、メシアの復活という使信(メッセージ)がなくても存在し得ますが、キリスト教はそうはゆかない、この使信が中核に位置している、ということです。

 

 この姉妹宗教三者のうちでどの終末待望が正しいのか、それは現在の私たちにはわかりせん。終末が実際に到来して初めてわかることです。それまで私たちは、角突き合わせていがみ合うのではなく、お互いの信仰を否定せず、しかし、お互いに自分のアイデンテテイを確保して、己の道を行くことが肝要です。この態度を「終末論的留保」と言います。限界のある私たちの理性でわからないことを、即断せず、まして他者を裁かず、終末まで待ち、他者に対して寛容になり、共に平和と信頼を築き上げて行く生き様です。こういう生き方ができるのも、終末論的な信仰の恵み、ご利益(ごりやく)です。三者共に「終末論的待望」信仰を持っているわけですから、「終末論的留保」の生き様を生きることができるはずです。相違に目くじらたてるのではなく、「アブラハム的宗教」三者の共通項に想いを馳せることが大切です。

 

 ちなみに、アブラハム的宗教の信徒は、三者合わせて地球の総人口の半分弱を占めています。(内訳は、ユダヤ教徒が1千5百万人、ムスリム・ムスリマ(イスラム教徒)が12億人、キリスト者が、カトリック12億人、プロテスタントが6億人、正教会が3億人の信徒を持っているとみられます。中東などの混乱の中で、統計が出ていないところもあるので、イスラームの信徒数は概算です。)つまり、ムラはありますが、世界を旅して、皆さんは二人に一人弱、アブラハム的宗教の信徒に出会うことになります。その意味でもアブラハム的宗教のなんたるかを知ることは、国際化時代にあって国際人の欠かせない教養です。そのいずれかの信徒であれば、お互いに理解しやすいのは当然です。これもご利益ですね。

 

4. プラトン霊魂論における霊魂の不滅説と輪廻転生説

 ヨーロッパの思想と文化に多大な影響を与えたのは、聖書の思想・宗教文化(これを「ヘブライズム」と言います)と、ギリシャのそれです。こちらは「ヘレニズム」と言います。私たちがギリシャと呼んでいるのは、英語のGreece(グリース)から来ています。でもギリシャ人自身は、自分の国を「ヘラス」と呼びました。「ヘラス」の思想だからHellenism(ヘレニズム)です。

 

 古典古代のギリシャ(共通紀元前5世紀)に三人の傑出した哲学者が現れたことは、皆さんもご存知でしょう。そうです、ソクラテス・プラトン・アリストテレスです。ソクラテスは、自分では著作を残しませんでした。ソクラテスを登場人物とする著作は、彼の弟子の一人であるプラトンが書いたものです。そのプラトンの中期の著作とみなされていますが、初期の影響を色濃く残していると思われるのが、『パイドン』です。その副題は、「魂の不死について」と言うものです。この『パイドン』の内容を、以下にまとめてみます。

 

4.1『パイドン』における魂の不死とその論証

 古代ギリシャ人は、人間を魂(霊魂 プネウマ)と肉体(サルクス)という全く異なる2つの要素からなる存在と見なしていました。

(1)死による魂と肉体の分離 人間が死ぬと、両者が分離する。

(2)肉体からの魂の離脱 そして肉体という牢獄から、魂は解放されて元来た道を、それ自体の故郷へ回帰する。

(3)肉体は、魂を惑わすもの

(4)魂の肉体からの解放と肉体との交わりからの解放がもたらされる。

(5)しかし、大衆は、肉体的な欲望を希求する。

 

4.2. 魂はいつ真理に触れるのか?

(1)死による肉体からの魂の離脱の折に、魂は再び真理を把握する。

(2)魂の肉体からの離脱は、カタルシス(浄化)を呼び起こす。

 

4.3  イデアによる魂との親近性における魂の証明

(1)魂は、イデアと同様自己同一である。

(2)魂は、イデアと同様常に不滅である。

(3)イデアと魂の諸特徴

  イ 神的なもの

  ロ 不死

  ハ 可知的(知りうる)もの

  ニ 単一の形相(形)を所有

  ホ 不可分(分けられない)

  ヘ 常に自己同一

以上が、イデアと魂の諸特徴。

 

4.4. 逆に肉体はこれら魂の諸特徴とは正反対の特徴を有する。

4.5. 肉体とあまりにも混合してしまい、浄化されないままに死後肉体と分離 する魂もある。

4.6 魂は輪廻転生する。すなわち、死後に肉体から離脱してそれ自身の故郷へ回帰した魂は、折を見て、適切な肉体を探して、また地上へ戻ってきてその人間の死に至るまで止まる。魂は、これを繰り返す。(ニーチェの言った「永劫回帰」(ニーチェ『悲劇の誕生』参照)

4.7 正義・善・美・徳・勇敢等のイデアと同様、魂は本来純粋無垢。

4.8 哲学者とは、魂の浄化に努める者。死を恐れぬ者。「哲学者は、死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、すなわち、死ぬことの練習をしている者なのだから。」(『パイドン』28ページ)

4.9 魂の浄化によりアレテー(徳)が備わり、死後の世界へ浄化された魂が回帰する。以上が、『パイドン』のあらましです。

 

ここでプラトンは、聖書が語る「死者たちからの体の復活」については、一言も言及していません。そうではなく、人間の死後の肉体からの魂の分離とそれ自身の故郷への回帰と輪廻転生を語っているのです。これをキリストの復活や私たちの復活と混同している人がキリスト者の中にも少なからずいます。「プラトン主義的キリスト教」を奉じるなら、復活を輪廻転生的に理解しても構わないですが、聖書的理解とはとても言えません。

 

輪廻転生と言えば、私たち東アジアと南アジアの人間には馴染みのある表現です。

というのも、ヒンドウー教と仏教は、「六道輪廻」を説くからです。全ての生命は、6つの生命圏を永遠に輪廻している、という教えです。ギリシャの場合には、魂は、それ自身の故郷と地上とを永劫回帰するわけですが、インドの場合には、6つの生命圏を設定し、しかも因果応報説により、過去世、現世(げんぜ)、来世という3つの時間軸を巡っている、というわけです。

 

5. しかしこの輪廻転生説は、カースト差別を正当化します。

カーストは。基本的に4つのヴァルナ(色 「五色の選民」の色です)から成り立っていますが、その外に「アヴァルナ」(ヴァルナでないという意味)と呼ばれる人々がいます。「カースト外のカースト」であるがゆえにイギリス植民地政府がかつて「アウトカースト」と呼んだ被差別民のことです。

 

ヒンドウー教によって彼らは前世の悪い悪業(カルマ)のゆえに、今のような境遇にいるのだ、と決めつけられてしまうわけです。証明不可能なのに! それでは救われません。ですからこの人たちは、自ら「ダリット」(サンスクリット語で被差別民の意味)と名乗り、南インドや中央インドではキリスト教に、パキスタンに近い西インドやバングラデシュに近い東インドではイスラームに、どんどん改宗しています。なぜならこの二つのアブラハム的宗教は、輪廻思想を持っていないからです。創造者なる神を信じる信仰は、輪廻転生説とは相いれないからです。今やインドのキリスト者の多数派は、ダリットクリスチャンです。ですからキリスト教と称しながら、輪廻思想も説くとしたら、それこそまがい物、混交宗教であって、全くキリスト教ではありません。

 

6. もっともお釈迦様の名誉のために言っておくことがあります。

本来の仏教(根本仏教)は、つまり、お釈迦様が説いたのは、人生を苦と認識し(四苦八苦)、そこを脱却する8つの正しい道(八正道)を実践し、悟りを開いて涅槃(ニルヴァーナ)に入れば、人はもはや輪廻転生の鎖を断ち切り、生まれ変わる必要がない、という解放の使信だったはずです。日本の仏教が、このお釈迦様の教えを実践してきたかどうか、そこが問われます。

 

7. なぜ輪廻転生しないことが解脱、救いなのでしょうか?

私は、アジアキリスト教協議会の会合などで南インドに三回行ったことがあります。その都度ヒンドウー教徒に聞いたことがあります。「あなたたちにとって輪廻転生の教えは、キリスト教でいう福音、喜びの音ずれですか?」 彼らは異口同音に言いました。「とんでもない! 来世にどこに生まれ変わるのかわからないので、不安です」、というのですね。それで私は、よくわかりました。だから、もはや輪廻転生しない、生まれ変わらない、永遠の眠りに入れることが、お釈迦様が説いたように救いになるわけです。

 

8. 復活の使信(メッセージ)とは?

さて、それではプラトン的にもヒンドウー教的にも輪廻転生ではない、復活の使信を聖書はどのように描いているのでしょうか?      

                        次回へ続く。

畠山 保男

 

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