第9回「神様の創造1 創造物語の理解を巡って その2」

 第9「神様の創造1 創造物語の理解を巡って その2」

 

<目次>

(つづき)

5. 人間は、「万物の霊長」かそれとも他の生物と「被造物同士」か

6. 聖書の二面性=聖書は神様の言葉にして、人間の言語で人間が書いた書物

7. 現代宇宙物理学の宇宙像と6日間の創造物語の間

8. 聖書が人間によって書かれた例証

9. 自然科学の発達とキリスト教の自然観

10. 結論

 

5. 人間は、「万物の霊長」かそれとも他の生物と「被造物同士」か

5.1 「人間は万物の霊長」という人間の定義の問題

 人類は、チンパンジーと共通の先祖を持っていると言われると、侮辱された、と感じる人がいます。両者に共通の先祖がいたということであり、チンパンジーが人類の先祖ということではありません。それでも侮辱されたと感じる人は、特に欧米のキリスト者に多いように、私には思えます。なぜ侮辱されたと感じるのでしょうか? それは、ヨーロッパでは「人間は、万物の霊長」と規定して、驕り高ぶってきたからです。でも、この人間の定義は、聖書の定義ではありません! ギリシャの哲学者の定義です。つまり、ギリシャ・ヘレニズムの人間理解です。

 

5.2. ニホンザルと進化論

 ちなみに、明治初期に日本にダーウインの『種の起源』を元にした進化論が入ってきたとき、ヨーロッパ人やアメリカ人とは異なり、日本人はこの考えをあまり抵抗なく受け入れた、と言われています。なぜでしょうか? それは、日本には、ニホンザルがいるからです。地球上で北限にいる猿ですね。だから英語ではニホンザルを、snow monkey(スノーモンキー)と呼びます。ニホンザルを観察すれば、我々人間と似ている点があることは、容易にわかります。(竹内久美子・佐藤優『佐藤さん、神は本当に存在するのですか?』2016年 文藝春秋 175ページ以下「日本人に受け入れられた進化論」参照)

 

 ところが、ヨーロッパには野生の猿(「旧大陸猿」)は生息していないんですね。動物園にしかいないわけです。ニホンザルは、「旧大陸猿」の一種です。そのニホンザルを観察していても日本人は、なんかどこか似ていると感じます。ましてヒト科の人類以外の「類人猿」(つまり、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、そしてここから分化したボノボ)は、さらに類似したところが多くあります。ところが彼らは、アフリカと東南アジアにしか生存していなかったわけです。オランウータンとは「森の人」という意味ですから、やはり東南アジアの人々は、彼らと自分たちの類似性を認めていたわけですね。

 

 ですから日本人なのに、キリスト者になったからといって、聖書原理主義の欧米人のように、人類は、チンパンジーと共通の祖先からお互い分化した、と言われて侮辱を感じるとしたら、それは欧米かぶれの信仰と言わざるを得ないのではないでしょうか? 

 

 そういうわけで、旧大陸猿も類人猿もどちらも生息しなかったヨーロッパでは、人間と猿を比較しようがなかったわけです。旧人類ネアンデルタール人が絶滅した後は、霊長類は、現生人類しかいなかったわけですから。ネアンデルタール人は、サルでもなければ、類人猿でもありません。その学名homo Neandertalensis(ホモ ネアンデルターレンシス)が示す通り、わたしたち現生人類homo sapiens(ホモ サピエンス)と同じ人類です。ハイデルベルク人(homo Heidelbergensis)という化石人類(つまり絶滅した人類)を共通の祖先とする仲間だと言われています。

 

つまり、このハイデルベルク人が、アフリカを出て、ヨーロッパに進出した、と言われています。このハイデルベルクジンから、アフリカで現生人類が、そしてヨーロッパでネアンデルタール人が分化し、出現したというのです。その年代が同じ時代であるならば、ネアンデルタール人を旧人類と呼ぶのは、訂正すべきなのでしょうか? でもネアンデルタール人も残念ながら約4万年前に絶滅した人類です。(アリス・ロバーツ編著『人類の進化大図鑑』2018年 河出書房新社 134ページ以下。さらに更科功『絶滅の人類史』2018年 NHK出版新書第12章「認識能力に差はあったのか」、第13章「ネアンデルタール人との別れ」参照)

 

 ヨーロッパにはそれ以来現世人類以外霊長類は存在しなかったのです。そのため霊長類と人間を比較できなかったギリシャ人は、すでに言及したように、挙げ句の果てに「人間は、万物の霊長」なんぞという傲慢な、驕り高ぶった「人間中心主義」を生みだしたわけです。ですからヒューマニズムが、ギリシャ的な意味で「人間中心主義」を意味するならば、聖書的な人道・博愛・正義を含む人間理解を、humanitarianism(ヒューマニタリアニズム=人道主義)と表現して、区別すべきです。なぜなら、聖書は、ギリシャ的な「人間中心主義」ではないからです。「神様中心主義」です。

 私なんぞは、人間とチンンジーの共通の祖先から、両者が分化したと学ぶと、侮辱を感じるどころか、逆に親しみを感じます。どこまでが共通点で、どこから異なるのか、大いに関心を持ちます。

(チンパンジーやそこから分化したボノボではありませんが、ゴリラ学者の京都大学の山極寿一教授と同志社大学の小原克博教授の対談『類の起源、宗教の誕生』(2019年 平凡社新書は、この分野の最新の書物です。山極教授の様々な指摘は、示唆に富んでいます。これについては、「人間の創造」のところで論じます。)

 

5.3. ある元同僚教員の訴え

 ちなみに、私の最初の赴任校明治学院大学の一般教育部に生物学担当の研究者がいました。この彼が、高校時代に教会に通い始めたわけです。大学受験への不安とか色々あったんだろう、と思います。ところが訪ねた教会の牧師は、逐語霊感説=聖書原理主義の立場の人でした。そういうわけで、彼が中学・高校で学んできた進化論を、鼻から受け付けませんでした。そのためキリスト教につまずいた、と本人から聞きました。

 

彼は、昔のことを思い出しながら、怒りを込めてそのことを私に語ったのですね。「どうしてくれる!」という調子でした。私は、「それは本当に申し訳ないことをした。でも、私もそうだけど、進化論を不倶戴天の敵なんて思わないキリスト者もいるんだけど・・・・・・」と心から詫びました。でも彼からわだかまりが消え失せるはずもありませんでした。こういうふうに自然科学に関心を抱く若者がつまずいてしまう、そういうキリスト教で良いんでしょうか? そういうキリスト教ってなんでしょう?

 

6. 聖書の二面性=聖書は神様の言葉にして、人間の言語で人間が書いた書物

 ここで、聖書解釈の問題が提起されます。聖書をいかに読み、理解するか、という問いです。

6.1 逐語霊感説=聖書原理主義への疑問

 神様の6日間の創造の業、と確かに創世記1章1節以下に記されています。その理由については、すでに上に記しました。しかし、逐語霊感説=聖書原理主義というキリスト者の聖書理解の立場があります。それによれば、聖書は、神のみ言葉であるがゆえに、一字一句間違いのない、絶対に正しい文書、と信じられています。ということは、6日間=144時間の時間の枠の中で、神様は宇宙・万物を創造された、という聖書の記述は、正しく、真実である、という主張になります。

 

 つまり、聖書の創造物語の記述では、最初の光の創造から人間の創造まで6日間しかありません。しかもこの最初の人間アダムの創造から聖書の登場人物を数えてアブラハムに至るまでの歳月、そしてモーセによる出エジプトまでの歳月、そして共通紀元前千年ごろのダヴィデの登場までを計算すると、ちょうど古代にユダヤ人が数えた「ユダヤ暦」のように、今日までわずか5千数百年しか経過していないことになります!

 

 5千数百年前ということは、オリエントに、北にシュメール人たちの文化が最初に、そして少し遅れて南にエジプト人たちの文化が歴史に登場するわずか数百年前ということになります。なぜなら両方の文化の出現は、共通紀元前3千年期の初め頃だからです。これってありでしょうか、人類史として? 

 

6.2 化石は人類史の証明か単なる石ころか?

 更に言えば、そうなると、化石に何の意味もなくなります。その化石から、動物の形や年代や意味を読み取ろうとする試みは否定され、化石は単なる石ころと化してしまいます。だから逐語霊感主義者たちは、化石の存在を否定します。それは、古生物学や人類学の研究結果を全体として否定することです。化石は、単に生物の骨格などが化石化していて、骨格からその姿あるいはその一部を知ることができるだけではありません。化石によって年代を測定できます。

 

宇宙線が大気中に生成する炭素14は、生物に取り込まれ、生物が死ぬと、5730年で半減します。そうすると、炭素14の化石中の量によって、人類の進化の跡を、年代とともにたどることができます。(電子版『ブリタニカ国際大百科事典』「ラジオカーボンデイテイング」参

 

6.3 進化論は、キリスト者に問いを投げかけた

 逐語霊感主義者たちは、聖書の文字に固執して、6日間で今地球上に生きる全ての生物の種が創造されたと考えます。つまり、環境の変化とDNA(遺伝子)と染色体の突然変異(これも環境の変化と深い関係がある、と言われていますが)による生物の進化は、この立場からは全然認められません。生物多様性は認められません。化石を否定するわけですから絶滅した生物種も否定し、現存する生物種は、神様の創造の時以来全く変化のないもの、とみなされます。ましてや、人類史を遡って、約7百万年前に共通の先祖から、アフリカで人類とチンパンジーが分化したなんていう仮説は、侮辱と感じられます。侮辱感の表は優越感です。ハイデルベルク人からアフリカで現生人類が、ヨーロッパでネアンデルタール人が分化したというのも、全く受け入れられません。

 

 「人間は、万物の霊長」という奢った人間中心主義が、侮辱感や優越感の原因ですが、進化論ではそれがぐらつきます。その結果、聖書の文字に固執して物神崇拝し、創造物語の記述を絶対化して、それによって自分たちの優越感を確保しようとします。逆に学問の成果は見向きもせずに、否定することになります。つまり、「反知性主義」は、ここにその根拠を持っています。その結果、近代文明そのものに背を向けようとします。それもアメリカのアーミッシュの人たちのように、電気も使用しない、自動車にも乗らないで馬車で行くという生活様式を実践するなら、首尾一貫します。不便だろうな、とは思いますが、尊敬に値します。でも主張において反近代主義でも、実生活では近代文明の利器を平気で矛盾もなく利用している人々には、私は偽善を感じます。主張や考えと実生活が首尾一貫していないばかりか、矛盾しているからです。ここでは反知性主義は、反文明的な反近代主義と一体化しています。

 

 しかしパウロは、「文字は(人を)殺すが、霊は(人を)生かす」(コリントの信徒への手紙23章6節)、と述べています。文字に拘泥することは、それを絶対化し、偶像化することです。パウロにあやかって言えば、「偶像は人を殺すが、まことの神様は人を生かす」、ということです。

 

6.4 進化の3つの要因

1.   進化する形質は、親から子へ伝わる。(遺伝)

2.   遺伝する形質には個体間で違いがある。(変異)

3.   その違いに応じて、生き残りやすさや子供の残しやすさに差がある。(選択)(長谷川英裕『面白くて眠られなくなる進化論』2015PHP研究所 51ページから引用)

 この3つの要因の中で基礎となるのは、遺伝です。牧師だったメンデルが発見した「メンデルの法則」は、遺伝子という観点から言えば、「遺伝子が支配する形質に自然選択が働くことで、その形質は進化する」(前掲書55ページ)、ということです。

 

 その後「メンデルの法則」による遺伝の仕組みに、遺伝子DNAの発見とその研究の深化、そして遺伝子がコピー(複製)される過程での変異のあり方の究明により、進化論は「総合説」と呼ばれる理論へと変化をとげます。

それを、上に記した3つの過程、すなわち「遺伝—変異—選択」に当てはめて定義し直すと、

1.  DNAからできた遺伝子が子供に伝わり、その上に書かれた遺伝情報が形質を発現させることにより、形質が遺伝する。(遺伝)

2.  DNAの複製時に塩基の取り込みの間違いが起こり、塩基配列が変化することで、合成されるアミノ酸鎖の配列が変化して、形質の現れ方が親と異なるものになる。(変異)

3.  生じた変異体の間で、次世代に残すDNAの複製コピー数に差が生じ、その多いものが進化してゆく。(選択)(前掲書70-71ページから引用)

 

6.5 自然科学と宗教が問うていること

 遺伝と変異と選択のプロセスが、自然界に生きる生物に起こっていることは、そしてそれを受容することは、神様の創造を信じることと矛盾しません。なぜなら自然科学は、18世紀以来神を想定することなく営まれてきた学問であり、本来神の存在を肯定も否定もしないからです。ですから、問われているのは、キリスト者であって、自然科学ではない、とも言えます。あるいは、自然科学が、命の形成過程とその構造に着目するとき、宗教は、命の価値と生きる意味を問います。アヤラ教授は、その関係を次のように記しています。

 

 「宗教と科学とは、世界についての異なった疑問に答える。宇宙に目的があるか否か、あるいは人間存在に目的があるか否かは、科学にとって問題ではない。—中略— 科学的知識は、宗教的信仰と矛盾するはずがない。何故ならば科学は、啓示、宗教的現実、あるいは宗教的価値を支持する、あるいは反対する言葉を何も持っていないからである。」((フランシスコ・アヤラ『キリスト教は進化論と共存できるか』2008年 教文館。145ページ)

 

 科学は、観測や実験によってものの本質、事実を突き止めようとします。宗教は、意味と価値を探求します。人間は、意味と価値なしには充実して生きられないからです。両者は、目標設定が異なります。

 

7. 現代宇宙物理学の宇宙像と6日間の創造物語の間

7.1. 現代宇宙物理学が提出する宇宙像

 宇宙物理学が提出する宇宙像は、ビッグバン(the Big Bang=大爆発)から始まります。このバンは、子供がおもちゃのピストルごっこするとき、「バンバン」と発射の音を鳴らすあのバンです。(でも日本の子供達は、このバンをいつ誰から教わったんでしょう?)このビッグバンは、宇宙のあるところで局所的に起こったのではなく、全体にわたって起こったとされます。ビッグバン以前の状態は、陽子の間を電子が飛び交うことができないほどぎゅうぎゅう詰めになった物質が存在し、それゆえにそれは非常に高温高圧の球体だったとされます。全体にビッグバンが起ったこの球体の大きさって、どの程度のものなんでしょうか?

 

 その球体が突然大爆発を起こすわけです。その時の時間を「プランク時間」と言い、10のマイナス44秒後とされます。そして膨張して行きます。一時その膨張が宇宙の温度が冷えて緩やかになりますが、やがてまた膨張速度を速めて現在に至っている、と言うのです。遠方の銀河が私たちの太陽系から、あるいは天の川銀河から遠ざかるのを、観測でつかんだのは、ハッブルでした。彼はこの「遠ざかる速度は、その銀河までの距離に等しい」、ということを発見しました。これを「ハッブルの法則」と言います。つまり、遠ざかる銀河の理由は、宇宙全体の膨張による、というのです。何が膨張するかといえば、空間が膨張するということです。しかも遠い銀河ほど遠ざかる速度は速くなっている、というのもハッブルの発見だそうです。(この項、伏見賢一『宇宙物理学入門』第5章「宇宙論」78-105ページ参照 第2版2015年 大学教育出版)

 

 ビッグバン以前に高熱の球体があったわけですから、ビッグバンは、「無からの創造」ではありません。ビッグバン以前の物質がなぜ存在するのか、どうしてできたのか、現代の宇宙物理学は、まだ解明の手を伸ばしていません。ビッグバンから現在までの宇宙の年齢も、現在のところ約138億年というのが定説です。

 

7.2. 聖書の記述と現代の宇宙像は、競合する関係にない

 そこで、問われるのは、聖書は、6日間144時間の神様の創造を語り、他方で今述べたような宇宙物理学の宇宙像によれば、宇宙の年齢は、138億年と主張されます。これは、お互いに不倶戴天の敵みたいな矛盾でしょうか? 私はそうは考えません。

 

 6日間144時間の神様の創造という創造物語の記述の時間枠は、安息日規定にあることは、すでに記しました。エローヒストたちは、光が動きを持っており、物体が動く限り速度が生じる、ということを想像することもなく、考察もしていません。それに聖書の創造物語は、実験や観測を繰り返して精度を上げ、それを記述する方法を取っていません。物語の方法で、自分たちの宇宙理解、世界理解、人間理解を物語っています。

 

 逆にアインシュタインが主張した「光の速さは一定」という「特殊相対理論」からは、ある星や銀河と地球との距離を測ることが可能です。光が1秒間に進む距離は、地球の赤道直径を7回り半と言われます。光は直進するわけですから、これはわかりやすくする例えですね。こうして1年間に光が進む距離を割り出せます。それを1光年とします。(星間距離をどうして測定するかについては、例えば伏見賢一 前掲書第4章「宇宙の広さ」51-56ページ参照。そこには、地球からの距離の違いによって異なる3つの測定方法が説明されています。)その観測の結果、ビッグバンは、138億年前に起こった、という数字になっているわけです。

 

7.3 再説 聖書の創造物語が一番言いたいこと=神様は創造者で安息日の主

 すでに前回のコラムでも強調しましたが、聖書の創造物語が一番言いたいことは、「神様が創造者」であり、その神様が創造の業を終えて安息されたこと、「アドーナイ(主)は安息日を祝福して、聖別された」(出エジプト記20章11節)、ということです。十戒第4戒との関連で言えば、だからこの安息日を、イスラエルもまた祝福し、聖別して祝うべきである、ということです。すでに言及したように、7曜の枠に1日安息日を取り、残りの6日間で神様の創造の業をちりばめたのが、聖書の創造物語です。

 

 すなわち「神様は,創造者、他の全ては彼の被造物」、というところに関心を集中させている創造物語は、現代の宇宙物理学の宇宙像と競合しようなんぞという発想を持っていません。そこを間違えて、同じ位相で聖書の創造物語の過程の正しさを論証しようとして宇宙物理学と張り合うと、キリスト教信仰は、反科学的になり、「反知性主義」に陥ります。それでは、化石と光の研究結果を受け入れている現代人に、最初から敵対し、伝道・宣教どころか、反感を与え、つまずきを与えるだけです。

 

7.4 「知的設計」って何?

 ですから、アメリカ南部の逐語霊感主義・聖書原理主義のキリスト者たちが、生物の授業で進化論を教えるなら、聖書の創造物語も教えろ、と要求するのは、お門違いです。それこそ専門の門が違います。聖書の時間に創造物語を教えるのは、私は必要だと思いますし、当然だと考えます。古代イスラエル人の信仰と思考の一端を知ることになるからです。でも自然科学の時間にそれを要求するのは、全然おかしい、と思いませんか、皆さん。

 

 聖書の創造物語は、自然科学的な記述になっていません。その批判をかわすために、「インテリジェント デザイン」(intelligent design)=「知的設計」という理論?が主張されていますが、結局生命の進化もその結果としての「生物多様性」も認めません。そして、「神の創造」というところを、「知的なデザイナーのデザイン」と言い換えているだけではないでしょうか? でもこの説を唱える人々にとって「不都合な真実」があります。それは、人間も含めて生物は、不完全であること、だからこそ環境に合わせて進化する可能性を持っているということ、生物の中には神様の創造の意図とは思えない残酷な事例も存在することです。(例えば、交尾の後でオスを食べてしまうカマキリのメス。)

 ですから、「知的設計」という主張の意図は、聖書の創造論の記述を自然科学的な装いに改めて、公立学校で科学の時間、生物の時間に教えろ、と要求するためです。(フランシスコ・アヤラ前掲書。 特にその6「知的設計」参照。)

 

 私たちキリスト者に求められているのは、信仰に基づく「知的誠実さ」です。自然科学は、研究の結果としてのデータ(つまり証拠)を積み上げて、一つの仮説を作ります。観察や実験を何度繰り返してもわずかな誤差しか出ない時、最も納得のゆく仮説として多くの研究者たちに受け入れられます。そういう研究者の努力に敬意を払うこと、それを受け入れることと、そこから自分の信仰を検証することは、知的に誠実であろうとするなら、キリスト者の務めです。

 

8. 聖書が人間によって書かれた例証

 繰り返しになりますが、聖書は、神様の言葉であると同時に、人間の言語で人間の手によって書かれた書物である、というのがこのコラムニストの聖書理解です。

 

8.1 神様が絶対ならば、聖書のみ言葉も絶対でしょうか?

 「神様のみを神様とする」というのが、「唯一神信仰」の揺るぎない立場です。神様のみ言葉といえども総体としての聖書を絶対化し、逐一の言葉が神の霊感によって書かれているから絶対正しいと言うのは、この唯一神信仰に属するのでしょうか? それなら、著者が記憶違いをしている場合、どう解釈できるのでしょうか? 記憶違いという誤りを、どう理解すべきなのでしょうか? あるいは、書かれている聖書のみ言葉を絶対化する立場と姿勢は、十戒第2戒に抵触し、それを侵犯することにならないのでしょうか? すなわち、物神崇拝・偶像崇拝という罪に陥ることにならないでしょうか? 

 

十戒第2戒とは、以下の戒めです。

 「あなたは、上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エジプト記20章4−5a節)

 聖書は、事実として「地にある」ものです。天に、神様の下にあったんでは、我々人間は、聖書に触れることさえできません。まあ、ユダヤ教では、神様がモーセに授けた「モーセトーラー」に対して、神様の身元に完全な形の「天的トーラー」がある、と主張されますが。でも私たちが読むのは、「モーセトーラー」です。この地上にあるトーラーです。

 

8.2. 福音書記者マルコの記憶違い

 さて、福音書記者の誤解・記憶違いとは、マルコ福音書の以下の記事です。

 「そして、安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった。そして彼の弟子たちが穂をつみながら道を進んで行った。そしてファリサイ派が彼に言った。「見よ、なぜ安息日に許されていないことをするのか。」そして彼らに言う。「ダヴィデが困って飢えた時に何をしたか、読んだことがないのか。ダヴィデ自身とその仲間が。アビアタルが大祭司だった時に(本当はアビアタルの父アビメレクが大祭司だった時 サムエル記上21.1-6)、神の家に入って、祭司しか食べることを許されていない供え物のパンを食べ、また一緒にいたものたちにも与えた、ということを。」そして彼らに言われた。「安息日は、人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。だから人の子はまた安息日の主でもある。」(マルコ福音書2章23-28節 田川健三訳)

 

 なぜ田川訳を引用したかと言えば、かっこの中の彼の注を読んで欲しかったからです。皆さん、ぜひサムエル記上21章1−7節の当該記事を読んでください。アビアタルについての記事は、サムエル記下15章24節以下に出てきますが、最後は王位継承に関してソロモンではなくアドニアを支持して、ソロモンに追放され、故郷のアナトトへ帰ったことが記されています。(列王記上2.26-27

 

つまり、アビアタルの記事のどこを探しても、父アビメレクと同じことを彼がダヴィデにした、とは記されていません。これは、福音書記者マルコの記憶違い、勘違い、誤りです。

 この勘違い、あるいは記憶違い、すなわち誤りも神様のみ言葉だから、誤ってはいないと言い張るとしたら、その主張の根拠はどこにあるのでしょうか? どこにもありません! ここからして、聖書も人間の書いた書物としては過ちうる、ということになります。それは事実ですから、率直に認めるべきです。でもだからと言って、聖書に失望したり信頼を失う必要は、全くありません。この部分を人間の成せる業と理解すれば、納得が行きます。人間誰しも完全無欠ではありません。マルコだってそうです。完全無欠は、神様だけです。なぜ聖霊が、福音書記者マルコに注意しなかったか? それは私にはわかりません。こういう問いを持つ人は、忍耐して終末まで待つしかありませんね。そこで答えが与えられるでしょう、きっと。ただ私には、マルコの記事は、聖書を物神崇拝するなよ、それは偶像崇拝だぞ、という神様の警告のようにも響きます。

 

 こういう記述の矛盾は、聖書には他にもあります。例えば、タナハ(旧約聖書)のサムエル記上16章で、ダヴィデは竪琴の名手としてサウル王に召し抱えられ、心の病んだ彼を慰めます。ところが次の17章では、ダヴィデは戦場に突然現れ、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒して、初めてサウル王に召し抱えられる、と物語られます。これも記述の矛盾ですね。「前の預言者」を書き記し、あるいは編集した「申命記学派」の人々が、2つの物語伝承をなぜ整合性のある記述に書き改めなかったのか、謎です。ここもまた「聖書の人間的側面」だ、と私は理解しています。

 

 創世記の創造物語もその例にもれません。第1の創造物語では、最後に人間が、男と女として創造されます。ところが第2の創造物語では、最初に人間=男が創造され、ついで食物としての植物が、そして動物たちが、そして最後に人間の女が創造される、という過程になっています。ここにも矛盾がありますが、そのことについては、「人間の創造」のところで論じます。

 

8.3 聖書の二面性を受け入れると

 ということで、聖書を「神様のみ言葉」にして、「人間の歴史と社会が生み出した文化的な遺産」として、その二面性において理解することが肝要です。そうすると聖書を物神崇拝する危険からも逃れられます。物神崇拝は、偶像崇拝という罪です。そこから自由にされます。自然科学と対話ができます。落ち着いて、化石の存在も、その結果としての「人類の進化」という理論も、ビッグバン理論も、その結果としての宇宙誕生138億年説も受け入れられます。

 

. 自然科学の発達とキリスト教の自然観

 そもそも17世紀以降の自然科学の発達に、キリスト教が大きな貢献をした事実は、自然科学の歴史を少しでもかじった者には、周知のことです。なぜなら17世紀の自然科学者たちは、自然の秘密を解き明かすことで、神様の創造の秘密を暴き立てるのではなく、逆にそのことによって、神様に栄光を捧げようとしたからです。(最近の関連図書として、稲垣久和・大澤真幸『キリスト教と近代の迷宮』2018年 春秋社 特にその第2章「近代科学の魔力と哲学の逆襲」参照。)

 

 そこには、聖書の自然観が大きく影響しています。唯一神信仰は、唯一の神様のみを創造者とします。今まで述べてきた通りです。そうすると、人間をはるかに超えた自然の力も、もはや神々として神格化して、崇拝する対象ではありません。私たち人間と同じです。「被造物同士(仲間)」です。崇拝の対象でないなら、距離をとって客観的に観察することが、可能になります。人間は、自然に憩われ養われながらも、自然に対して相対的に自立する意識を獲得します。この自然に対する立ち位置が、自然(科学)研究に最初の動機を与えました。ですから、汎神論的・多神教的な、自然を神々して崇拝の対象とする精神風土からは、自然科学は発達しませんでした。唯一神信仰の土壌から自然(科学)研究は、立ち上がったのです。

 

 キリスト教は、そのように自然科学との親和的な関係を持っていたのに、キリスト者が反知性的・反科学的になってどうしますか?

 

10. 結論

 そういうわけですから、皆さん、「キリスト教は、反知性的・反科学的だ」、なんぞと思わないでくださいね。自然科学に対してキリスト教は、本来敵対的ではありません。むしろすでに述べたように親和的でした。一部のキリスト教の反知性的・反科学的な現象を見て、誤ったイメージを抱いているとしたら、とても残念なことです。予断と偏見を解いてくださると、コラムニストとしては深く感謝です。そうすると、「神を信じること自体が非科学的だ」というような、いわゆる独断的な「科学主義」と素朴な無神論に毒された「宗教蔑視」からも脱出できます。単なる進歩史観や自己限定を知らない科学主義による無神論を超えることができます。

 

次回予告

 次回は、「神様の創造2 —被造物としての人間」です。神様の創造の中で、人間の創造に焦点を当てます。人間とは、何者か? 類人猿との比較も試みます。

 創世記3章の「堕罪物語」も分析のテキストです。キリスト教は、この創世記3章から、人間の原罪論を導き出し,展開してきましたが、ユダヤ教は反対に、原罪論を持っていません。両者の違いは、なぜ生じたか? そこが問題です。聖書のテキスト解釈として、どちらが正しいのでしょう?

 乞うご期待。

畠山保男

 

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