第10回 間奏曲—クリスマス説教

「平和の君メシア=キリストの到来」

            イザヤ書11章1−11節

            マタイ福音書1章18−25節

<目次>

1.キリスト教の三つの祝祭日

2.クリスマスとはキリスト礼拝のこと

3.イザヤの預言に至る歴史的経緯

4.エッサイの根まで戻って

5.エッサイの根から出るメシアは「平和の君」

6.「平和の君」キリスト・イエス

7.敬愛する皆さんへ

 

 

1.キリスト教の三つの祝祭日

 敬愛する教会員の皆さん、敬愛する求道者の皆さん、

 みなさんがすでにご承知の通り、キリスト教には3つの大きな祝祭日があります。降誕祭=クリスマスと復活祭=イースター、そしてその50日後に訪れる聖霊降臨祭=ペンテコステですね。この3つの祝祭日の中で一番受け入れられているのは、日本では降誕祭です。降誕祭というより、クリスマスといったほうが、人々にはわかりやすいほどです。その理由は、少なくとも3つあります。

 

 一つは、赤ちゃんの誕生というのは、民族や宗教に関係なく、誰もが身近に経験することだからです。それは大きな喜びです。ましてメシアの誕生日においておや。つまり赤子の誕生という人間にとって普遍的な出来事と深く関係するのが、降誕祭です。

 二つ目に降誕祭が、12月25日という固定した祝祭日だからです。プロテスタントもカトリックも、私たち西方教会では、この12月25日を降誕祭=クリスマスとして祝います。ところが教会暦には、1月6日に公現日というのがあります。歴史的にはこちらの方が主イエス様の誕生を祝う祭りとして古いのを、皆さんはご存知でしょうか? 公現日と私たち西方教会は言っていますが、東方教会にとってはこの日が降誕祭=クリスマスです。

 三つ目の理由は、復活祭も聖霊降臨祭もキリスト教に特有な祝祭日ということと、教会暦によって毎年祝祭日が移動して変わるという理由で、クリスマスほどまだ日本社会に受け入れられていない、ということです。

 

2.クリスマスとはキリスト礼拝のこと

 皆さん、降誕祭の主役は、誰でしょうか? こんな間の抜けた問いを皆さんにするのは、失礼かもしれません。でも今日の説教で一番に確認したいことは、この問いです。クリスマスという英語の単語は、c-h-r-i-s-t-m-a-sと綴ります。ここに発音しないのにtという文字が入っています。なぜでしょうか? それは、この単語がもともと2つの単語を合わせた合成語だからです。つまり、Christt(キリスト)とマスと読める綴りから成り立っています。masの方はもう一つsを加えてdoubule(ダブル) sにしてmassと綴ると、マース(アメリカ英語ではメス)と読み、ミサの意味になります。カトリック教会のミサのことです。つまりクリスマスとはキリストのミサ、キリスト礼拝という意味です。クリスマスという言葉は、その中に主人公が誰であるかをすでに含んでいます。そうです、クリスマスの主役は、キリストご自身です!

 

3.イザヤの預言に至る歴史的経緯

 このイエス・キリストの到来、誕生を、新約聖書は、イスラエルの預言者たちをとうして予言されていたメシア、すなわち救い主として告知しました。マタイとルカの二つの福音書の降誕物語、特にマタイのそれは、キリストの到来を予言の成就とみなしています。そうしたメシア予言の一つが、今日の説教テキストであるイザヤ書11章の予言です。ここは、「エッサイの根」として知られています。「エッサイの根」とは、一体何のことでしょうか? エッサイとは、ダヴィデ王の父親のことです。(サムエル記上16章1節、5節c、11節)「ダヴィデの根」と言わずに「エッサイの根」というからには、ここであの栄光に包まれたダヴィデ王とは異なる、メシア(油注がれた者)の出現が、願い求められています。

 

 預言者イザヤにとって、ダヴィデの何が不都合だったのでしょうか? 軍事的な指揮官や政治的な支配者としては、ダヴィデは確かに偉大な王でした。もちろん彼は、人間として誤りも犯し、罪にも陥りました。しかし彼は、イスラエルの繁栄の礎を築いた人でした。彼の息子ソロモン王の栄華も、父ダヴィデの基礎作りなしにはあり得なかったわけです。

 しかし、ソロモン王の死後、統一王国イスラエルは、南の10の部族の代表がソロモンの息子レアブアムに税金や使役の軽減を願い出たのを拒否した結果、分裂し、独立してしまいます。北王国イスラエルの成立です。そういうわけで、ダヴィデ王家は、小国となった南王国ユダを支配するにすぎなくなります。預言者イザヤが神様から召命を受けたのは、共通紀元前736年のことと言われます。北王国が、アッシリア帝国によって滅亡するのは、共通紀元前721年です。15年前という危機的な状況で、イザヤは、預言者としての活動を始めます。この時アッシリアは、サマリアを陥落させ、北王国イスラエルを滅亡させた勢いをもってエルサレムを包囲し、あわや陥落かという事態に陥ります。ところが突如としてアッシリア軍は、包囲を解いて引き上げます。一説によれば、包囲するアッシリア軍に疫病が流行りだしたからだと言われています。こうして辛うじて生き残った南王国ユダも、しかし共通紀元前567年に新バビロニア帝国によって滅亡します。こうしてダヴィデ家の直系の子孫は、絶えてしまったのです。

 

4.エッサイの根まで戻って

 こういう時代状況の中で、イザヤは、メシアの出現・到来を予言したのです。イザヤの時代にも、その後の時代にも、ダヴィデ王の再来のようなメシアが現れて、強い軍隊を率いて、諸外国を攻め滅し、イスラエルの繁栄を取り戻してくれる、と待ち望む人々がいました。するとこの11章でイザヤが予言しているメシアも、そういう強力な軍隊の力、軍事力でもって、他国を占領し、征服して、諸国民を支配するダヴィデのような人のことなのでしょうか? イザヤは、そうではない、と言うのです。

 そのメシアは、ダヴィデとは異なり、「平和の君」なのだ、と強調されています。(イザヤ書9章5−6節参照)この「平和の君」なるメシア予言を前提として、この11章の予言が出てきます。11章1節で、「ダヴィデの根から」と言わずに、「エッサイの根から」と言われているのはそのためです。

 ダヴィデの父親のエッサイへ戻って、その株から「一つの枝が萌え出、その根から一つの若枝が育ち、その上に種の霊が止まる」、とイザヤは予言します。そうするとここには、宮廷貴族であり、宮廷祭祀の一員でもあり、それゆえにダヴィデ王朝の権力の側近くにいて、王に仕えていたがゆえにその実態をつぶさに見ていたイザヤの、ダヴィデ的な王権に対する批判が表現されている、とみなすことができるでしょう。

 

5.エッサイの根から出るメシアは、「平和の君」

 「平和の君」とイザヤは予言しますが、それは一体誰のことでしょうか? そしてそれは一体誰にとっての平和であり、「平和の君」なのでしょうか? そのことが問われます。繰り返しますが、強力な軍事力を持ってた国民を侵略し、私費し、搾取することによって成り立つ、支配者とそれに連なる支配民族にとっての平和でしょうか?こういう平和感は、すでに古代オリエントには紀元前2千年紀のアッカド・バビロニア時代から存在しました。こうした平和感を、イザヤは批判しているのです。

 彼によれば、エッサイの根から新しく出現するメシアは、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(11章4節a)というのです。「平和の君」による統治のあり方は、この世の権力者のそれとは異なり、「正義と真実を自ら具現している」(5節)方による統治である、と預言者イザヤは予言します。その後6節から8節までは、「動物世界の平和」の予言です。肉食動物と草食動物の間の食物連鎖は、現実にはそれなしには肉食動物が生きては行けないものです。

 しかしそれを超えた幻をイザヤは語るわけです。まあイザヤは現代の生物学者ではありません。彼が語りたいのは、そして強調したいのは、すべて生きとし生ける者たちの「平和的共存」の幻です。

 

6.「平和の君」キリスト・イエス

 敬愛する皆さん、

 この「平和の君」とは、新約聖書によれば、メシア・キリストのことである、と言うのです。このメシアの到来を、私たちは、降誕節(アドヴェント)に待ち続けます。そこで、改めてクリスマスとは何なのか、考えてみましょう。

 

6.1. クリスマス=時が満ちる日

 ガラテアの信徒への手紙において、パウロはこのことを次のように記します。「しかし時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の元に生まれたものとしてお遣わしになりました。」(4章4節)つまり、クリスマスとは、時が満ちる日なのです。そのことは、イエス様の公生涯における神の国の宣教の第一声にも言えることです。「時は満ちた。神の国は手元まで近づいている。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ福音書1章15節=畠山訳)

 

6.2. 神様とメシアの連帯が示された日

 神様の御子イエス様の降誕は、イエス・キリストが、人間社会の最も深い深淵へ降りてこられ、そこで苦しむ人々と連帯してくださった日です。(J.L.フロマートカ)つまり、神様が御子キリストにおいて、歴史の只中で私たちに連帯してくださった日、それがクリスマスです。福音書記者ヨハネは、この出来事を、「ロゴス(言葉)は肉となって私たちの間に宿られた。私たちは、その栄光を見た。それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1章14節)と書き記します。すなわち、ロゴス(言葉)が肉となった、受肉した、という独特な表現で、イエス・キリストの到来が告げられています。それが、預言者イザヤが予言した「インマヌエル予言」、「神は我らと共に」という予言の意味です。(イザヤ書7章14節、マタイ福音書1章23節))

 

6.3. 愛が示された日

 3番目に、こうして神様は、イエス・キリストにおいて私たちと共にいてくださり、私たちに愛を示してくださったのです。神様が共におられるという体験を、すでにイスラエルの民は、エジプトを脱出した後で荒野をさまよったときに味わいました。昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもってイスラエルの民に付き添ってきださったからです(出エジプト記14章24節、民数記14章14節)。これをヘブライ語でシェヒナー(臨在)と言います。つまり預言者イザヤは、この神様のシェヒナー(臨在)を、インマヌエル(神我らと共に)という表現に言い直し、言い換えたえたわけです。そしてそのことを、「神はその独り子を遣わすほどに、世を愛された。独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、と福音書記者ヨハネは語ります。(ヨハネ福音書3章16節)イエス様の生涯は、この愛によって貫かれた生涯でした。「友のために命を捨てる、これより大いなる愛はない」(ヨハネ福音書15勝13節)、とはイエス様の自己証言です。この愛とそれに加えて正義の究極的な姿を、私たちは、のちに十字架上に見ることになります。自ら苦しみ、犠牲の死を遂げることによって示された救い主の愛とは、なんという逆説でしょうか!

 

6.4. メシアは、豊かであるのに貧しくなられ、奴隷にまでなられた

 しかもこの神様の御子キリストが、ルカ福音書によれば、馬小屋で生まれた、というのです。こうして4番目に、神様の御子であるのにイエス様は、貧しい者となり、小さい者となられたのです。自らへりくだり、真の謙遜を示されたのです。フィリピの信徒への手紙においてパウロは、次のように記しています。「キリストは神の形であられたが、それを固執すべきこととは思わず、かえって己を虚しくして、奴隷の形をとり、人間と等しくなられた。」(2章6−7節=畠山訳)「奴隷の形をとり」と訳したところを、新共同訳は、「僕の身分になり」と訳しています。でもここは、「神の形(=ギリシャ語モルフェース)と対比してドウロス(ギリシャ語で奴隷の意味)の形(モルフェース)と意図的に記されている箇所です。ですから「奴隷の形」と訳すべきで、「僕の身分となり」はいただけません。つまり、イエス・キリストは、奴隷の形を取ってまで、私たちの元で生きられたのだ、と言うのです。

 またパウロは、コリントの信徒への手紙二では、「主は、豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです」(8章9節)、と記しています。

 さらに受難物語によれば、イエス様が、弟子たちにまで奴隷のように振る舞ったことが、福音書に記されています。主人の足を洗うのは、当時奴隷の任務だったの=です。(ヨハネによる福音書13章1−20節)

 

6.5. メシアの祝福に与る人々=最も小さな人々とメシアの自己同一化

 このメシアの出来事によって何が生じたのでしょうか? マタイ福音書の山上の説教の「幸いの教え」にあるように、貧しい人々(マタイは、「心の貧しい人々」としていますが、ここはルカ版の平地の説教の当該箇所を取ります。ルカ福音書英6章20節b)、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々が、祝福を受けます。(マタイ福音書5章3−16節)そして飢えた人に食べさせ、喉の乾く人に飲ませ、旅人に宿を貸し、着るものもない裸の人に着るものを与えて着せてやり、病気の時に見舞い、牢にいる時に尋ねた人々が、永遠の祝福を受けるのです。(マタイ福音書25章35−36節)裁き主キリストによって、「最も小さい人々の一人」に行った振る舞い・行為によって人々は祝福されるのであって、信仰の有無や教会員であるか否かは、ここでは問われていません!そしてここでは、裁き人としてのメシアは、この「最も小さい(小さくされた)人々とご自身を自己同一化されています。

 

 その意味では、ルカ福音書の降誕物語における「羊飼いの物語」も、このメシアの連帯を示しています。ダヴィデ王も少年時代は羊飼いだったわけです。(サムエル記上16章11節)しかし、イエス様の時代になると、羊の番をしていて安息日など律法の規定を守れなかった羊飼いたちが、差別されていました。ところが、ルカ版の降誕物語では、キリストの降誕を最初に天使から告げられるのは、羊飼いたちです。それはちょうど、マルコ版の復活物語で、当時の父権制的なユダヤ社会では裁判における証言能力を認められていなかった女性たちが、キリストの復活の最初の証人になるのと並行関係にあります。どちらも差別され、抑圧されていた人々が、メシアの降誕と復活の証人とされるのです。人間的に言えば、私たちの信仰は、このひとたちの証言に基づいています。ここにキリストの福音の独特な視座があります。

 

7.敬愛する皆さんへ

 今までクリスマスとは何かという問いを巡って、色々考えてきました。1.時が満ちる日、2.神様が私たちに連対された日、3.神様の愛が示された日、4.キリストが謙遜を示された日、5.貧しい者・小さくされた人々が祝福される日の5点です。

 

「神様の贈り物と私たちの返礼としての捧げ物としてのクリスマス」

 最後にもう一つ言うべきことがあります。クリスマスのことをドイツ語ではWeihnachten(ヴァイーナハテン)と言います。この言葉も合成語ですので、二つに分割できます。Weihe(ヴァイエ)とは宗教的な奉献、捧げ物のことです。Nachtenn(ナハテン)は、夜の意味のNacht(ナハト)の複数形です。つまりヴァイーナハテンとは、「捧げ物をする夜」という意味です。

 この世の王侯貴族のように、臣下や民衆にかしずかれて、贈り物を受け、仕えてもらうのではなく、逆に神様は、御子をこの世にお与えになり、御子は、この世の人々に仕えるために自らの命を捧げられました。これがドイツ語の意味です。「人が友のために命を捨てる。これよりも大いなる愛はない。」(ヨハネ福音書15章13節)神様は、御子の誕生という形で、最大の贈り物を私たちに与えてくださいました。

 

 しかし、頂くばかりで良いのでしょうか? 私たちもまた、自ら自分にとって大切な物を捧げること、他者と共に共有することが求められています。神様に感謝するということは、具体的な形において感謝することです。「得るよりは与える方が幸い」(使徒言行録20章35節)とあります。この言葉は、具体的な感謝の行為において実感されます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」とか、柳生新陰流の極意書では言うそうです。でもこの場合、身を捨てるのは浮かぶためであり、これは同一人の行為です、身を捨てるのも浮かぶのも。でもイエス・キリストは、私たちのために身を捨ててくださり、それによって私たちは浮かぶ瀬を見出し、救われたのです。その救いの時が、このクリスマスから始まったのです。

 

 相互不信と対立や憎悪の中で生きるのは、とても辛いことです。そうではなく神様がキリストをとうして与えてくださった平和を生きる時、相互信頼を生きるとき、私たちは心に平安を得られます。そしてクリスマスにおける御子の誕生を、降誕を、心からの喜びを持って迎えることができるのです。

                         アーメン

 

 説教者には、納得して語ってきたという説教がいくつか、あるいはいくつもあります。この説教も、私にとってはその一つです。そういうわけで、クリスマスの時期に説教に招かれると、以下に記す教会で同工異曲?の説教をしてきました。招いてくださって教会に感謝です。

 門真兄弟伝道所 鎌倉恩寵教会 日本基督教会西宮中央教会 番長教会 船越教会 明治学院チャペル 紅葉坂教会

 

 以上の教会とチャペル、そしてこの説教を読まれるすべての読者に神様の祝福を祈ります。

 

畠山 保男