第8回「神様の創造1 創造物語の理解を巡って その1」

第8回「神様の創造1 創造物語の理解を巡って その1」

 

<目次>

1.神様は唯一なる創造者

2.神様の聖なる御名

3.「創造者」なる唯一の神様

4.結論

 
1. 神様は唯一なる創造者
1.1 神様の唯一性の聖書的根拠

 ユダヤ教とイスラームの信仰は、唯一の神様を信じる「唯一神信仰」です。(「一神教」というのは宗教学の概念であり、「多神教・汎神論」との対比で使用される概念ですから、このコラムでは使いません。)ヘブライ語エハッド(唯一)は、今日でもユダヤ人が1日三度は祈る「シェマーの祈り」において次のように告白されます。

 

1.1.1 シェマーの祈りにおける神の唯一性

 「シェマー イスラエル(聞け、イスラエルよ)、アドーナイ(主)なる我らの神は、エハッド(唯一)なるアドーナイ(主)。あなたは、あなたのアドーナイ(主)なる神を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛さねばならない。」(申命記6章4−5節)

 

 イスラームでは、唯一なる神アラーの唯一性は、タウヒードというアラビア語で表現されます。イスラームも神の唯一性を強調します。ではキリスト教は、「唯一神信仰」でしょうか? アブラハム的姉妹宗教3者の中でキリスト教だけが、「三一神」を信じます。つまり、神様は唯一で一つの本質を有し、しかも父と子と聖霊という3つの位格(プロソーポン=ギリシャ語、ペルソナ=ラテン語)を持つ、というのです。キリスト教が、ユダヤ教やイスラームから批判されるのは、この三一神という理解です。

 

 アドーナイというのは、元は神様の御名を記した聖なる4文字、ラテン文字に転写すればYHWHとなる言葉です。でもユダヤ人たちは、共通紀元前3世紀以来、神様の本名を言わず、読まず、代わりにアドーナイ(主)と読んで今日に至っています。

 

1.1.2 十戒第一戒

 もう一つの根拠は、言うまでもなく十戒第一戒です。

 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、あなたの神アドーナイ(主)。あなたには私の他に他の神があってはならない。」(出エジプ記20章2−3節)

 

 通常2節は、キリスト教会では「前文」とみなされ、十戒の解釈から外されます。ルターもカルヴァンもそうです。でもユダヤ教は、この「前文」を第一戒の中に組み入れ、3節と合わせて第一戒としてきました。そこで神様は、解放された民に、あなた方をエジプトの地、奴隷の家から解放したのは、その名をアドーナイ(主)というこの私だ、と告げています。この私があなた方を解放し、自由を与えたのだから、あなた方は、あのエジプトであなた方を奴隷にした他の神々を信じる必要は、もはやない。私のみがあなた方の解放と自由の神だ、と読めます。

 

1.1.3 十戒第一戒における解放の神様という理解の現代教会への影響

 いやはや驚きです! キリスト教会が「解放の神学」を展開するのは、1960年代後半からです。コロンビアのメデジンで1968年に開催された「第2回ラテンアメリカ司教会議」で、「神は、貧しい者を優先的に選ばれる」と宣言されて以来、「解放の神学」が、全世界へ発信されました。ちなみに今月(2019年11月に)来日するローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、この「解放の神学」の中から出てきて、教皇に選ばれた人です。パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、そしてベネデクト16世と続いた保守的な教皇の後、解放の神学を自分の神学的立場とし、実践もしてきた大司教=枢機卿が、いきなり教皇ですよ! 彼は、ラテンアメリカ出身というだけではなく、南半球出身の最初の教皇になったわけです。カトリックはすごい! いや、ほんまに。掛け値無しで驚嘆です!それに反してプロテスタント諸教会はどうなん?と問わねばなりません。(乗浩子 『教皇フランシスコ』2019年 平凡社新書178ページ以下参照)

 

 最もヨハネ・パウロ2世教皇について言えば、彼は以前ポーランドのクラクフ大司教=枢機卿でした。(枢機卿というのは、大司教の中から教皇によって選ばれて、コンクラーベ=教皇選出選挙の際に選挙権と被選挙権を持つ人たちのこと。)ということで、アウシュヴィッツと第二アウシュヴィッツ=ヴィルケナウ絶滅収容所は、彼の大司教区内にあり、彼の友人で犠牲になった人がいました。それもあって神学的には保守だったヨハネ・パウロ2世教皇は、キリスト教とユダヤ教との対話にはすごく熱心で、積極的でした。このことに私は、深く感謝しています。さらに彼は労働組合「連帯」を支援し、ポーランドの民主化闘争を支援しました。保守的といったのは、キリスト教の教理において保守的、という意味です。

 

1.2 ユダヤ教の特徴としての「解放の神」への信仰

 でも解放の神学を自分の立場とする人を教皇に選んだカトリック教会よりもすごいのは、ユダヤ教です。なぜならユダヤ教は、そもそもの始めから十戒第一戒において、解放と自由の神様を信じてきたからです! 逆にキリスト教会は、十戒第一戒第一項(キリスト教会が呼ぶ「前文」)を無視して十戒を解釈し、どんな神様を信じてきたのでしょうか?

 

 はっきり言えることは、イスラエルが神様の唯一性を信じてきたときに、実はその唯一の神様が3つの位格(プロソーポン・ペルソナ)を持っている、すなわち、唯一の神様が、一つの本質を持ち、父であり、子であり、聖霊である位格を持つなんぞと三位一体的に信じたわけではない、ということです。新約聖書にすら記されていない三位一体の教理は、いわば後出しジャンケンです。なぜそういう解釈になったのか、それは「キリスト理解を巡って」という項目で、論じることになるでしょう。

 

1.3 イエス様の十戒第一戒へのミドラッシュ(ラビ的聖書注解)

 神様の唯一性について、イエス様はどういう見解だったのでしょうか? マタイ福音書のいわゆる「山上の説教」(マタイ5−7章)に、この問いに対する彼の答えがあります。

 

1.3.1 神様かマモンかー二者択一の意味

 「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神とマモン(繁栄を約束する繁盛の神・偶像の名前=畠山)とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ福音書6章24節)

 

 ラビたちの聖書注解をミドラッシュと言います。これは、まさに神様の唯一性に関するタナハ(旧約聖書)の十戒第一戒とシェマーへの祈りへのイエス様のミドラッシュです。というか、「山上の説教」自体、いや福音書自体が、イエス様のミドラッシュと言っても過言ではありません。ここで問題になっているのは、唯一の神様に仕えるのか、金銭欲を満たそうとするマモンという名の偶像に仕えるのか、命の主・存在の主なる神様に仕えるのか、それとも富と所有によって存在を保証しようとする偶像に仕えるのか、という二者択一です。

 

ここは「あれかこれか」(S.キエルケゴール)の選択を迫られる場面であり、「あれもこれも」は、最初から排除されています。富と所有は、権力を生み出しますが、命と存在を保証できません。唯一の神様を信じるということは、命の創造者・命の主・命の命を信じることです。

 

1.3.2 イエス様の「ヌチドウ宝」(命こそ宝=ウチナー(沖縄)語表現)

 あるいはまたイエス様は、次のようにも警告します。そこでは、富や権力は、決して命を保証しないことを、疑問の余地がないほど明白に述べています。

 

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ福音書16章26節)

 このイエス様の警告は、十戒第10の戒め「あなたはむさぼってはならない」に対するミドラッシュとしても理解できます。貪り、それは、他人から搾取し、暴力的に奪うことです。貧富の差が拡大している現代世界は、この貪りに満ちています。

 

2.神様の聖なる御名

2.1 神様の御名を汚すのを恐れたユダヤ人

 神様が、ご自身の御名を持っておられるということを、ほとんどのキリスト者は知りません。キリスト教の神学者たちは、逆に神様の御名を平気で、畏敬の念もなく書き記したりもします。

 神様の御名を、ユダヤ人たちは共通紀元前3世紀ごろから使用しなくなりました。この神様の御名に変えて、アドーナイ(主)と読み替え、呼びかけるようになりました。なぜでしょうか? ユダヤ人たちが、十戒第三戒を誠実に守ろうとしたからです。

 「あなたは我が名をみだりに唱えてはならない。我が名をみだりに唱える者を、アドーナイ(主)は罰せずにはいない。」(出エジプト記20章7節)

 

 Revised English Bible(改定英語聖書)は、我が名を「みだりに唱える者を」という文を、‘who misuses his name’「彼の御名を誤用する者を」と訳しています。つまり、無意識にも神様の御名を誤用し、濫用することで御名を汚すことを恐れたユダヤ人たちは、神様の御名を唱えること自体をやめてしまったわけです。私たち異邦人は、祈る時ぐらい神様の御名を唱えてもいいんじゃない、と思います。でも何事にも徹底するユダヤ人は、そうは考えませんでした。無意識にでも神様の御名を汚す危険があるなら取り除け、つまり、神様の御名を唱えないでおこう、となったわけです。

 

 その結果、神様の御名を唱えるのは、大祭司だけとなりました。大祭司のみが、年に一度新年祭にエルサレム神殿の奥の至聖所で神様の正式の御名を唱えることになったわけです。その結果、民衆は神様の御名の本当の読みを忘れてしまいました! そして共通紀元70年に第一次ユダヤ戦争がエルサレム陥落と神殿破壊で終わります。その時大祭司を始めとするサドカイ派の人々は消滅し、歴史の舞台から消え去ります。そして神様の御名を、聖なる4文字をどう読むのか、誰にも判らなくなってしまいました。なぜなら、ヘブライ語には母音がないからです。ですから文字の下などに母音記号をつけないと、初学者には読めません。こうして自分たちが信じている神様の御名を忘れた民族なんて、全くユダヤ人以外にいるでしょうか! しかも神様への信仰を捨てたからではなく、全く逆に神様の御名を畏れ、浄めようとした結果です!

 

2.2 「主の祈り」の第1祈願の意味

 イエス様の「主の祈り」の第1祈願は、「御名を浄め(きよめ)させ給え」です。日本語の「御名を崇めさせ給え」は、ちょっといただけない訳です。教会でそのように祈っているキリスト者の皆さんには、申し訳ありませんが・・・・・・RSVの英訳は、‘Hollowed be thy(your 畠山) name’です。hollowは、崇めるとも浄めるとも訳せます。でも日本語ではどちらかになってしまいます。イエス様が「主の祈り」の第1祈願を民衆や弟子たちに教えられた時、ユダヤ人として十戒第三戒を意識されていたことは、疑い得ません。単に崇めるのではなく、神様の御名を浄める、聖とすることが問題です。そのためには、神様の御名を唱えることをやめてしまったユダヤ人! 彼らの敬虔のなんと深いことでしょう!D.ボンヘッファーが獄中書簡の中で、このことに触れて次のように記しています。

 

 「人は、神の御名をみだりに口にしてはならないことを知っている時にのみ、イエス・キリストの御名を同時に口にすることを許される。—中略—あまりに性急に、そしてあまりに直接的に新約聖書的であろうとし、またそのように感じようとする者は、僕の考えではキリスト者ではない。」(D. ボンヘッファー『獄中書簡集 抵抗と信従増補新版』1988年 新教出版社 181ページ)

 

 神様の御名を畏敬の念もなく口に出し過ぎていませんか、というボンヘッファーの警告です。そしてこれは、神様の御名を唱えなくなったイスラエルの畏敬と敬虔を知らなさすぎること、そこから学ぼうとしないことだ、と批判しています。それすなわち、「あまりに性急に、そしてあまりに直接的に新約聖書的であろうと」することであり、タナハ(旧約聖書)の使信を無視することである、というのです。そういう人は、「僕の考えではキリスト者ではない」、とさえボンヘッファーは批判します。

 

 このタナハ(旧約聖書)の使信の無視と新約聖書の使信への極端な集中は、プロテスタントの牧師の説教に現れます。年間52回の聖日説教のうち何回旧約テキストを用いて説教しているか、という問いにわずか5回以内と答えた牧師が大半だった、という統計があります。(この統計は、報告者が、彼の教派の友人・知人の牧師にアンケートした限られたものですが、それにしてもほとんど旧約聖書は無視されていることがわかります。)新約聖書だけをテキストに説教している牧師は、「あまりに性急に、そしてあまりに直接的に新約聖書的であろうとする」、というボンヘッファーの批判を免れることはできません。このコラムを読まれる牧師がおられたら、自分は何回ぐらいか数えてみてください。)

 

 さらにボンヘッファーは、「最初の石板の神の10の御言葉の解釈」という論文でも、次のように記しています。

 「神の御名のそうした誤用の危険に、イスラエル人たちは、この御名を全く唱えないという禁止をとうして出会った。我々は、この規則において告げ知らされている畏敬について、ただ学ぶのみである。神の御名を唱えないほうが、それを人間の言葉に貶めるよりも確かにより良いことである。」(ボンヘッファー選集第9巻『聖書研究』 ただし引用は、ドイツ語原文からの私訳。“Konspiration und Haft”『謀反と拘束』 1996 Chr.Kaiser S.668f.)

 

3.「創造者」なる唯一の神様

 聖書66巻の最初の書物「創世記」の冒頭1章と次の2章に、神様の御手になる創造物語が記されています。そこからして、唯一の自由と解放の神様が、同時に「創造者」なる神様であることが、告知されます。神様が創造者である、ということは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームのアブラハム的姉妹宗教三者に共通の信仰告白です。

 

キリスト教で言えば、古代信条は、「我は天地(と見えるものと見えざるもの=ニカイア信条)の造り主、全能の父なる(一人の=ニカイア信条)神を信ず」(括弧以外の文言は、二カイア信条と使徒信条に共通)と告白します。この信条の第一項は、あまりにも短かすぎますね。神様が、創造者であり、全能であり、唯一であり、父であると、4つの事柄が神様の属性として告白されます。でも神様が、解放者であるとか、裁き主であるとか、贖い主であるといった告白は出てきません。神様が、愛と慈しみと正義と公平と平和の神、誠実と真実の神、といった神様の属性に対する告白もありません。)(これについては、「かm貴様について」という項目で言及します。)

 

 ユダヤ教においては今も、多面的に神様が信じられているわけです。特にユダヤ教の神秘主義である「カバラー」には、「神の10のセフィロート(属性)」と呼ばれる教えがあります。カバラーでは、神様は、10の属性を持っておられる、と教えるわけです。これについても、「神様について」という項目で言及します。

 ということで、まずは創世記の最初の創造物語へ赴きます。

 

3.1 神様の創造の業ー 第一の創造物語から(創世記1章1節〜2勝4節a)

 「はじめにエローヒーム(神)は、天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の表を動いていた。」(創世記1章1−2節) 

 

3.1.1 創世記1章1−2節の理解

 無からの創造か?

 「天と地を創造された」とありますが、それは3節以下の神様ご自身のみ言葉(ダーバール)による光の創造以下のことを指しているのでしょうか? 通常は、そう解釈されます。そうすると、形をなしていない、つまり固まっていない「地」と深淵があり、闇がその上にあり、神様の霊が漂っていたのは、神様の創造以前の原初の姿、と解釈されます。しかし、神様が「天と地を創造された」のが、万物すべてであるなら、地も深淵も闇も、全ては神様の創造のみわざとなります。確かに原初のものは、神様のみ言葉による創造ではないとしてもです。そうすると、「初めに」をどう解釈するか、そこが問われます。「初めに」「天と地を創造」されたのは、御言葉による光の創造以後のことを指しているのか、それとも1−2節を含めた全てを指しているのか、ということで、意味が違ってきます。皆さんならどちらの解釈を取りますか?

 

 3節以降を本来の神様のみ言葉による光の創造とすると、神様の創造は、(昔からラテン語でcreatio ex nihilo クレアーチオ エクス ニヒロと表現されてきた)「無からの創造」ではない、ということになります。でも、1節・2節も含めて全てが神様の創造なら、「無からの創造」になります。この第一の創造物語の資料を伝承し、書き記した人たちを、エローヒストと呼びます。「はじめにエローヒーム(神)は、天と地を創造された」とあるように、神様に「エローヒーム」という単語を用いているからです。このエローヒストたちは、神様の創造をどう解釈していたのでしょうか? 彼らは、「無からの創造」を考えていなかった、というのが多数意見ですね。

 

3.1.2 アッカド・バビロニアの創造神話「エヌマ・エリシュ」との対比

 エローヒストたちの創造物語に影響を与えたと思われるのは、アッカド・バビロニアの創造神話「エヌマ・エリシュ」です。この神話によると、主神マルドウクは、彼自身の母でもある海を象徴するテアマットとその軍勢に、若い神々と一緒になって戦い、策略を持ってテアマットを打倒します。そして彼女の腹を割いて、その肢体やら贓物を用いて世界を創造した、という物語です。そしてテアマット軍の指揮者だった男神キングーの血で人間を創造した、という神話的な人間創造の物語です。(月本昭男『物語としての旧約聖書上』 2018年 NHK出版 14ページ以下参照。さらに同著者『古代メソポタミアの神話と儀礼』2010年 岩波書店 第1章「古代メソポタミアの創生神話」参照)

 この「エヌマ・エリシュ」の創造物語では、無からの創造ではなく、もともとテアマットの体であった原初の素材を用いて、世界を創造するわけです。この名残が、地も深淵も闇も存在した、と聖書で語られるときに垣間見えます。ここに出てくる「深淵」を、「混沌の海」と訳すと(月本訳 『物語としての旧約聖書上』18ページ)、それは海を象徴するテアマットへ行き着きます。

 

 しかし、もちろん創世記の創造物語は、神々の世代間闘争とその帰結としての勝利者側の主神による世界創造を物語っているのではありません。宇宙万物の創造は、ひとえにこれ神様の創造の業であると主張され、神様ご自身が、創造の指導権を発揮しておられるのです。

 

3.2 神様の創造の過程

 創世記1章1節から2章4節aの第1の創造物語に、神様の創造の過程が記されています。2章4節bから2章終わりまでの第2の創造物語では、最初にアダム(人)の創造が物語られ、そのあと食物としての植物が創造され、最後に人の伴侶として動物たちを創造します。つまり、アダム(人)の創造に焦点を当てた第2の創造物語は、第1の創造物語と創造の過程が逆になっています。二つの創造物語の語り手は、このことを矛盾とは思っていなかったようです。だから、2つの創造物語が、逆の創造の過程を描いているのに、調整しなかったわけです。

 創世記の第1の創造物語における創造の過程を、まとめてみます。この創造過程に対して、皆さんならどんなコメントを出しますか?

 創造の日  創造されたもの  コメント=C

 原初の姿  混沌とした地。深淵の表にある闇。水の上を漂う神の霊。

 C=神の霊以外、これら全ても神の創造か、創造以前にすでに存在したのか?

 1日目  光の創造。光=昼と闇=夜を分ける。

 C=闇=夜を恐れた古代人が、いかに光を求めたかを示している。肉食動物から身を守るために、人類は火を灯し続けた。

 2日目  大空=天の創造 大空の上と下に水を分離

 C=雨が降るのを、天の上にも水があるから、と解釈。

 3日目  大地と海の創造。種を持つ草と実をつける果樹の創造。

 C=大地と海が分かれ、大地に草木が生える。

 4日目   2つの大きな光るもの(太陽と月)と星々の創造。太陽に昼を、月に夜を支配させる。光と闇を再び分離。 C=光と闇の分離が、1日目と4日目で重複。その理由は?

 5日目  水の中の生き物(怪物を含む)と空の鳥の創造

 C=レビアタンやビヒモスなどの怪物とみなされた生き物も水性の生物。ここで初めて神様は、「産めよ、ふえよ、海の中に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と祝福する。これは、生物史の順序とは違っている。地球上空にオゾン層ができるまで、実際には生物は陸に上がって生きることができず、最初は海の生物が繁栄した。

 6日目  地の獣、家畜、地を這うものの創造。そして最後に人間の創造。

 C=地の獣と家畜が並列されているが、人類が動物を家畜化して飼育するようになるのは、1万数千年前から。この動物の家畜化が、遊牧文化を生む。地を這うものとは、蛇のような存在を念頭に置いている。人間の創造については,「人間の創造」の項目で取り扱う。

 7日目  全ての創造の技を終えて、神様は安息に入り、休息された。

 C=その意味については、次項3.3をご覧ください。

 

3.3. 安息日の実践は、ユダヤ人の世界文化への貢献

 7曜、つまり1週間を7日に区切る文化は、古代イスラエル人の発明ではありません。それはすでに、メソポタミアの古代文化の所産です。イスラエルも当然この文化的な遺産を踏襲します。しかし、イスラエルにあって他の古代オリエント諸文化に無いのは、「安息日の規定」です。これは、メソポタミアにもエジプトにも見出せない、イスラエル独特の文化であり、世界文化への貢献です。なぜなら、聖書が十戒第4戒において安息日規定を設け、それを古代以来イスラエル人がただ一人実践してきたからです。そしてキリスト教が、キリストの復活を記念して「主の日」として日曜日を休む理由になった起源です。しかも最初期のユダヤ人キリスト者たちは、安息日を守り、その上で安息日明けの朝、つまり日曜日の朝にも彼らだけで集まり、「主の日」として礼拝を行なっていました。ところが、安息日の遵守という習慣を持たない異邦人キリスト者が教会の中で多数派になると、いつしか「主の日」のみの礼拝へと一本化されて、今日に至っています。さらにイスラームが、ユダヤ教の安息日より1日前倒しで、つまり木曜日日没から、金曜日日没までを安息日として祝っています。

 

 この3つの宗教の信徒で、地球人口の約半分弱が、安息日を実践していることになります。残りの他宗教の信徒や無神論者も、ほとんど日曜日を休日として休んでいるはずです。それを実践できない貧困層の人々を除いては。この人たちが安息日を休めないのは、世界経済における貧富の差・格差という不正義のゆえです。この人たちが安息日を休めるような、富の均等配分が必要です。どうすべきかは、安息日を休めるすべての人々が考えるべき事柄です。

 

3.4. 安息日が神様の6日間の創造という時間の枠をはめた

 なぜ神様は、6日間で創造の業を終えられた、と第1の創造物語は語るのでしょうか? それはまず7曜の枠があり、イスラエル人が安息日規定を順守していたことが、その前提であり、その理由です。しかもこの安息日規定の根拠は、出エジプト記版の十戒第4戒に、神様が6日働いて7日目に休まれたのだから、神の民イスラエルもそうすべきである、とあります。

 

 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神アドーナイ(主)の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの門の中に寄留する人々も同様である。6日の間にアドーナイ(主)は天と地と海とそこにある全てのものを造り、7日目に休まれたから、アドーナイ(主)は安息日を祝福して、聖別されたのである。」(出エジプト記20章8−11節)

 

 ここを読めば、神様の6日間の創造の業という時間の枠が、一目瞭然ですね。エローヒストたちは、7曜の時間枠における安息日の由来との関連に集中して、6日間の神様の創造の業を描いています。彼らの関心は、そこにあります。つまり、創造物語が私たちに伝えているのは、

 1.唯一の神様が、宇宙万物と命ある者すべての創造者であること。

 2.その創造者なる神様が、安息日の主である、ということです。

 神様が働きを終えて休まれたのだから、私たち人間も休みもなく働き続けて命を縮めるのではなく、安息日を守って心と体を休ませて、次の6日間の労働に備える生活のリズムを守って生きるべきだ、というのです。しかも、自分たち家族だけではなく、奴隷も家畜も、外国人もすべて安息を取るべきだ、という徹底ぶりです。

 

 「あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、(牛ろばなどすべての=申命記版の記述 申命記5章14節)家畜も、あなたの門の中に寄留する人々(すなわち、外国人=畠山)も同様である。」

 

4.結論

 ですから、聖書の創造物語と宇宙物理学の見解の相違は、見ている地点の違いであり、立脚点の違いです。7曜を前提とし、また神様の最後の7日目の安息を前提にし、強調して記述すると、聖書の創造物語になります。宇宙の物理的な年齢を計測すれば、宇宙物理学の宇宙像になり、ビッグバン理論となります。つまり、138億年前に、そのビッグバンは生起した、という主張になります。記述の様式も違います。そもそもエローヒストには、光の速度との関連で宇宙の年齢を計測する、と言う発想も関心もありませんでした。ですから両者の記述は、衝突するようなものではありません。同一線上にいません。比較しようがありません。強調点が違います。

 繰り返しになりますが,聖書の創造物語が私たちに伝えたいことは、

 1.神様は創造者であること。

 2.それゆえ宇宙万物から人間に至るまで全ては神様の被造物であること。

 3.この創造者なる神様が、創造の業を終えられた次の日7日目に休まれた、安息された、ということです。

 つまり、第1の創造物語は、安息日の原因譚でもある、ということです。この3項さえ把握し、信じるとすれば、宇宙の起源や人類の歴史の自然科学的な考察を、深い関心を持って学び、受け入れることができます。じゃあ「神は妄想だ」、と主張してやまない「利己的遺伝子」の提唱者ドーキンスのような立場について、どう対応するか? それについては、次次回以降に。

 

次回予告

 

 次回は、この主題「神様の創造1 創造物語の理解を巡って その2」です。聖書の二面性、特に聖書が人間の言語で人間によって書かれた古代世界の文化遺産という側面に光を当てます。そして考古学・古生物学・広い意味の人類学や、宇宙物理学と素人ながら対話を試みます。その点で、一風変わったキリスト教入門になるでしょう。乞うご期待。

 

畠山 保男

 

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